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天國へのキッス3

2012/02/04 Sat 04:40

                10

 男の口から噴き出たねずみ色の泡がいつまでも頭から離れてくれませんでした。
 僕は頭からそれを振り払おうとおもいきり路地を駆け抜け、あまりの勢いで『バッカス』を通り過ぎてしまったほどでした。
 店に入ると老婆はカウンターに右頬を押し当てたまま、小さな口を開けて居眠りをしておりました。
 階段の中段辺りにマキが体育座りしているのが見えました。マキは階段の上から僕を見るなり、「遅い」と意地悪そうに笑ったのでした。

 二階に上がると、そこにはまだ中年男とマキの熱気がまるでスチーム風呂のように残っていました。
 このニオイを一言で表現するなら「人間のニオイ」。しかし、マキにしたらこのニオイは、便所の壁に落書きされていた「地獄」のニオイなのかも知れません。
 部屋では相変わらずの草刈正雄が爽やかな笑顔で僕を迎えてくれました。部屋の中央に敷かれた煎餅布団。中年男の肛門を舐めそして中出しされた地獄の布団が、今は、掛け布団の隅がピーンと立てられ、妙に綺麗に整頓されている。それが無性にいじらしく思いました。

「どうしてまた来たの?」
 地獄布団の上で体育座りをするマキは不思議そうに僕の顔を見つめました。薄ピンクのシミーズの股間から、黒いパンティーの三角形が顔を出していました。
「……別に……」
 僕は照れ笑いを浮かべながらマキの正面にそっと腰を下ろしました。
「もしかしてあの呼び込みのおっちゃんに無理矢理連れて来られた?」
 どうやらマキは僕の事を心配してくれているようです。
「いや、違う……」
 恥ずかしがり屋な僕は視線のやり場に困り、ふとマキから目を反らすとまたしても僕の目に飛び込んで来たのは草刈正雄の笑顔でした。
 そんな草刈正雄を見つめながら、押し入れの中に転がる親指大のウンコをふと思い出しました。今更ながら、どうしてこんな所にウンコなんかしたんだろうと思うと、不意に笑えてきました。

「時間、あるん?」
 マキはそう呟きながら枕元に置いてあった灰皿を引き寄せ、そして女の子らしいデザインの煙草の箱をカポッと開きました。
「えぇ……まぁ……」
「ウチ、今夜はあんたが最後なの。だからゆっくりしていい?」
 マキはそう言いながら大きな瞳で僕を覗き込み、女の子らしい煙草の箱から女の子らしい細い煙草を摘み出し、それを静かに唇に挟みました。

「関西……ですか?」
 突然マキの言葉の発音が変わった事に気付いた僕はすかさずそう聞きました。
「うん。京都。」
 マキは嬉しそうに笑いました。
 そして静かにライターの火を付け、ジリリッと細い煙草の先を焦がすと、「気がつくとね地元の言葉で喋ってる事が時々あるの」と無理に標準語を使いながら、窄めた唇からスーッと細い煙を吐き出し、そしてまたクスッと笑いました。
「よく笑うね」
 僕は靴下の先をモジモジと弄りながら呟きました。きっと僕の今の顔は茹で蛸のように赤くなっている事でしょう。
 するとマキは嬉しそうにパッと顔を明るくさせ、「ウチな、本名は『笑う子』と書いて『しょうこ』言うねん。だから、笑うてばっかの人生や」と、そう言いながらまたクスクスと笑います。
 そんなマキを見て、僕は「へぇ~そうなんだぁ~」と答えながらも、しかし心の中で(嘘つけバカ)とすかさずツッコミを入れますと、クスクスと笑ったマキはフッと真顔に戻り「嘘だけどね」と標準語で呟きました。

 沈黙が続きました。
 マキの吐き出す煙草の煙は妙に間隔が早く、マキの口から発せられる「フーッ」という音ばかりが忙しなく響いておりました。
 僕は小説ばかり書いている為か、心の中では溢れる程に言葉が生まれるのですが、しかしそれを口に出す事が苦手で、いわゆる「会話」というのが下手糞な男なのです。だから僕はせっかく女の子と知り合ってもなかなか打ち解ける事が出来ず、いつも女の子に「暗いヤツ」と誤解されてしまうのです。いつだったか、それを手相占いのおじさんに相談した事があったのですが、その時手相占いのおじさんは「高倉健だって口下手だよ」と僕を慰めてくれ、あの時はやけに自信がついたものですが、しかしだからといって何の解決策にもなりませんでした。
 そんな、沈黙が大の苦手な僕は、この沈黙の中で何か話さなければと必死になって考えますが、しかし必死になればなるだけ何も頭に浮かんできません。焦りながらもふと目に入った押し入れの襖を見た僕は、今頃押し入れの中の熊の置物の横にポツンと置いたままの大便はカリカリに乾いている頃だろう……と思いましたが、しかし、まさかマキにそんな話しをするわけにもいかず、更に焦った僕の額からは、次第に嫌な汗がダラダラと流れて来ました。
 ガラス製の灰皿に細い煙草をカサカサっと押し付けたマキは、いきなりシミーズを頭からスポッと脱ぎ取り、蛍光灯の明かりの下に真っ白な乳房を曝け出すと、左の乳首をツマミながらジロジロと観察し始め、そしてポツリと「あんの糞親父……噛みやがって……」と呟きました。
 急に悲しくなりました。あの中年男のイボ痔を今僕の目の前にいるマキがこの今僕が座っている布団の上で舐めていたという現実が生々しく甦り、僕は胸をギュッと押し潰されたように急に切なくなってしまいました。
「……小説書いてるって……ホンマ?……」
 マキは細長い人差し指で乳首をコロコロと動かしてはそれを確認しながら、俯いたままボソっと聞いて来ました。
「……えぇ……まぁ……」
「どんなの書いてるの?」
 そう言いながらパッと顔をあげたマキの表情は、小学生のように幼く見えました。
「……主に恋愛モノ……ですかね……」
 まさか、『水虫借金地獄』のタイトルまでは言えませんでした。
 マキは大きな瞳を優しく笑わせながら「へぇ~」と言うと、また乳首を覗き込みながら「千切れたら大変だよ……」と独り言を呟いたのでした。
 突然、通りの路地に面したステンドグラスにバタバタバタという音が響きました。見ると一匹の大きな蛾が部屋の中へ入り込もうとしてステンドグラスに激突したらしく、そのあまりの衝撃に脳震盪でも起こしたのか、窓のサンで激しく羽ばたいていた蛾はそのまま窓の下の屋根の上に落ち、しばらくの間バタバタと不気味な音を立てながらもがいておりました。
「じゃあ……ヤろっか……」
 乳首検査が終わったマキは、そう言うとそそくさと布団の中へ潜り込みました。
 正直に言って僕はあまり気が進みませんでした。出来る事なら、このままこうして黙ったまま、マキを静かに観察しておきたいとそう思いました。
 マキは布団の中で下着を脱ぐと、昨夜同様ソレを敷き布団の下にソッと押し込みながら、「早く脱いで」と僕にそう言いました。そして上着を脱ぎ始めた僕を布団の中からコッソリ覗き見しながら、「今日は立つかなぁ……」とポツリと呟き、僕が「え?」と聞き直すと、マキも「え?」と僕の真似をして、そしてクスッと笑いながら布団の中へ潜り込んだのでした。

         11

 全裸になって布団の中へ入りますと、湿った布団が僕の肌に吸い付き、そこ染み込んでいるあの男の汗が僕の毛穴から体内に入って来るような気がして、とたんに背中が痒くなりました。
 布団の中で小さくなっていたマキは静かに目を綴じています。僕はそんなマキの小さな体を優しく包み込むように抱きしめると、マキの細いうなじに顔を押し当てました。
「立ってるね」
 マキが僕の耳元に甘く囁きます。僕のペニスはマキの太ももの上で互いの体に挟まれながらコリッと体勢を変えました。
 僕の腕の中のマキはとても小さくそして弱々しく感じました。
 どうしてわざわざ京都からこの街にやって来たんだろう。ふとそう思うと、京都から出て来た19才のこの淫売婦が無性に切なくなりました。
 金か?……借金か?……いや、それなら何もこんな田舎の温泉町に来なくとも京都だって大阪だって金を稼ぐ所はいくらでもある……じゃあなぜ?……もしかして……男か?……
 マキの首筋にはリンスの香りが充満しておりました。小さなアパートの浴室で、濡れた髪をクシュクシュとリンスしているマキの姿を空想する僕は、素直にマキと一緒に暮らせたらと思いました。
「ねぇ……」
 僕はマキの首筋に顔を押し当てたまま微かな声でそう呼びました。
「……なに?……」
 一呼吸追いてマキが答えます。
「彼氏……いるの?」
「いない」と、マキは直ぐに答えました。

 しばらく沈黙が続きました。窓の外から「ジロジロ見てんじゃねぇよ冷やかし野郎が!」というオバさんの声が聞こえ、すぐさま「うるせぇババア!」という酔っぱらいの声が聞こえました。
 1階からナイター中継の音が聞こえて来ます。同時に、マキの心臓の音が僕の胸をノックしていました。

「どうして……この町で働いてるの?」
 僕は枕に頬をあてながら、唇だけマキの耳元に伸ばしてはコショコショ声でそう聞きました。
「……売られたからよ」
 マキも僕の真似をしてコショコショ声で囁きました。
「誰に?」
「悪い男」
 窓の下の屋根の上で、自分の存在をアピールするかのように再び蛾がもがき始めました。

 枕に頬をあてながらマキの横顔を見ていると、いきなりマキが僕の方へ顔を向けました。
 豆電球がボンヤリと灯る一発屋の二階で、京都から悪い男に売られて来たという19才の売春婦としばらく見つめ合っていました。

「どうしてそんな事聞くの?……」
 マキは枕に半分埋もれた僕の顔を覗き込みながら聞きました。
「……好きだから」
 僕は擦れた小声で遂にそう囁くと、そのままゆっくりと目を閉じました。

 再び蛾がバタバタっと音を立てました。しかしその音はどこか弱々しく、それはまるで最後の力を振り絞っているかのようでした。
 静まり返った部屋に、「70過ぎてよくやるねぇ」という客引きの婆さんの声が路地から聞こえて来ました。

 僕は枕の上で目を閉じたまま、いったいマキはどんな表情で僕をみつめているのだろうかと気になりました。僕の愛の告白を、地獄を彷徨う19才の淫売婦はどう受け止めてくれたのだろうか、と、気になって仕方ありませんでした。

「ねぇ……」
 マキの甘ったるい声が僕の耳元をくすぐりました。僕は勇気を出してソッと目を開きます。そして僕のすぐ目の前で豆電球に照らされながら大きな瞳を僕に向ける少女に「なに?」と優しく答えました。
 マキは僕の愛の告白が聞こえなかったのか、それとも、聞こえたくせに聞こえないフリをしてトボケているのか、平然とした表情で「ヤらないの?」と聞いてきました。
「ヤらない」
 僕も真剣な目で彼女を見つめながら答えました。
「……どうして?」
「…………」
 僕はゆっくり目を綴じました。そして最後に力を振り絞ったあの蛾のように、「切なくなるから……」と答え、もう一度マキの小さな体を抱きしめたのでした。

 その時、階下から野太い声が聞こえて来ました。店に新たな客が来たのか、階下から聞こえて来るそのドヤドヤとした雰囲気を感じながら、僕はもう誰にもマキを抱かせたくない!と心で叫びながらマキを強く抱きしめました。
そんな僕の腕の中に強く抱きしめられていたマキは、細い肩を強引に窄めさせられながらクスっと笑い「痛いよぅ……」と戯けて見せました。
 僕はマキの髪の匂いをおもいきり吸い込み、その切ない匂いに心を溶かしながら心の中で「好きだ」と何度も呟やきました。

 すると突然、階段の下から「おい……」という野太い声が聞こえてきました。
 その声に、僕は現実へと引き戻されました。
「だからもう少し待ってって言うてるやない!もうすぐ時間なんやから!」
 老婆の甲高い金切り声が部屋中に響き渡りました。
 するとまた違う誰かが「わかったから静かにしろ!」と老婆に怒鳴り、老婆の金切り声は一瞬にして消されました。
「お~い……」
 再び野太い声が階段から聞こえて来ます。
「警察だけど、ちょっといいかなぁ……」
 その声と同時に階段がギシッという音を立てた。マキが僕の耳元に「ちょっと!」と言いながら、抱きしめていた僕の腕を振り解きます。
「早く服着て!」
 マキはそう言いながら敷き布団の下に隠していた下着を急いで取り出すと、それを布団の中でモゾモゾと履き始めました。
「お取り込み中悪いんだけどさ……」
 階段から制帽をひょっこりと出した警官は、豆電球だけの薄暗い部屋に小さな懐中電灯を向けました。
「ちょっと!なにすんのよ!」
 懐中電灯の明かりに胸を映し出されたマキは、階段から覗く警官にそう怒鳴りながら、慌ててシミーズを上から被ります。
「あのさぁ、そこで事件があってさぁ、ちょっとでいいから捜査に協力してくれないかなぁ……」
 警官はわざとなのか、服を着るマキの太ももや胸元に懐中電灯の明かりを舐めるように照らしました。
 その懐中電灯の明かりが僕の顔をパッと照らしました。
 一瞬、「うっ!」と目を背ける僕。
「おー、いたいた、丸坊主の兄ちゃんだ、間違いねぇ」
 懐中電灯を持った警官が階下に向かってそう叫ぶと、階下から「だからあたしゃ何も知らないって!」という老婆の金切り声が再び響きました。
「あんた、服着てさぁ、ちょっと下に降りて来てくれねぇかなぁ……」
 警官は懐中電灯を僕に向けたまま、随分と落ち着いた口調でそう言うと、口元を綻ばせながらも凄い目つきで僕を睨みながら、「どうして呼ばれるのか、わかってるよね?」と低く呟きました。
「……わかってます……」
 そう答えながらも、僕の脳裏に金玉を潰されて悶え苦しむ中年男の姿が浮かんで来ました。
 すかさずマキが「着替えたらすぐに下に行かせるから、アンタも下へ行っててよ!」と警官に怒鳴りました。
 警官は、「了解!」っと戯けて呟くと、カチッと懐中電灯を消しました。そして「店に迷惑掛かるから、大人しくしてよね」と威圧するような発音でそう呟くと、ギシギシと階段を降りて行ったのでした。

         12

「あんた、何やったのよ」
 警官の足音が消えると、マキが慌てて僕の顔を覗き込みました。
 僕は服を着ながら、「うん……ちょっとね……」と呟きました。
 まさか、嫉妬に駆られてさっきの客の金玉を踏みつぶしたなんて、マキには言えませんでした。
 僕が服を着替えている間、マキはずっと僕を見つめていました。
 そしてふと僕と目が合うと、「大きな事件なの?」と心配そうに聞いて来ました。
「……わかんない……」
 僕はそう答えながらも、台所でみそ汁を作るお袋の顔がふと頭に過りました。
 震えながら靴下を履いていると、マキが慌ててポーチの中を漁り始め、その中から綺麗に折り畳んだ1万円札を取り出すと、「これ、返すから」と僕に差し出しました。
「いいよ、そんなの……」
「ダメよ。何もしてないんだから返すわよ。それに、どうせあんたお金持ってないんでしょ?」
 マキはそう言いながら首を傾げ、ふいにリンスの香りを漂わせました。
 そんな香りが無性に僕を切なくさせました。警察に捕まる事なんか別にどうでもいいのですが、ただもう少しここでマキの小さな体を抱きしめていたかったと、それが発狂しそうなくらいに心残りでした。
「ねぇ……」
 僕はマキの細い指をソッと握りしめながら呟きました。
 マキは「……なに?」と心配そうに、そんな僕の顔を覗き込みました。
「……地獄?」
「……え?……」
「ここでの暮らしは地獄かい?」
「…………」
 ジッと僕を見つめるマキの背後から、「おーい!早くしろよー!」と、警察官が階段の壁をドンドンと叩いては急かしました。
 マキは僕の質問には答えず、手に持っていた一万円札を僕の手に握らせると「早く……」と俯きました。
 後ろ髪を引かれる思いで靴下を履き終えた僕は、握っていたその1万円を再びマキの華奢な手の平に握らせました。
「この金で……最後にキスをして下さい……」
 そう呟いた僕を見つめるマキは、か細い腕を静かに僕の肩に回し、耳元で生温かくクスッと笑いました。そして僕の顔を正面から見つめ直し、更にもう一度クスッと微笑むと、ソッと瞳を綴じ柔らかな唇を僕の唇に押しあててきたのでした。
 マキの生暖かい舌が僕の口内に侵入して来ると、階下から「いいかげんにしろよー!」という警官の声が聞こえて来ました。
 僕は無我夢中でマキの舌に舌を絡ませました。互いに前歯をガチガチとぶつけ合いました。マキの細い体をギュッと抱きしめ、心の中で好きだ好きだと何度も叫びます。そして、こんな世の中なんてとっとと滅亡してしまえばいいんだとそう思いながら、僕はそのまま天国へと堕ちて行ったのでした…………





…………と、ここまで書いた僕は、ふぁぁぁぁぁぁぁ!っと大声で叫びながら大きな背伸びをすると、そのまま畳の上にゴロン!と寝転がりました。
 そんな僕の大声に反応したのか、中庭で野良猫が「ヤ~ゴ~」と泣きました。
 夜の風鈴の音を聞きながら天井のシミをボンヤリと眺めていると、僕はそこまで小説を書いておきながらもあることにふと気がつきました。

(この男って……よくよく考えればただのストーカーじゃねぇか……)

 僕はムクリと起き上がると、煙草の箱から乱暴に煙草を取り出し、「くそっ!」と言いながらそれを唇の端に喰わえたまま、カチッ!カチッ!と電子ライターの音を何度も響かせました。

(だから恋愛系はやめときゃ良かったんだよ……純粋な売春婦なんて今時いるわけねぇじゃねぇか……時代錯誤も甚だしい!)

 そう思いながら、カチッ!カチッ!という音を何度も響かせていると、それがいつしかリズムになって来ました。
 僕はライターの電子音を指パッチンのように鳴らしながらスッと立ち上がると、ライターを鳴らしたまま部屋中をウロウロと歩き回りました。そして時折、ヒョイ!と飛び上がってみせたりして、そして再びカチッ!カチッ!カチッ!とライターを鳴らしながら歩き回ります。
 そう、気分は突然、映画「ウエストサイドストーリー」です。
 つま先立ちの僕はカチッ!カチッ!とライターを鳴らしながら、飛び蹴りをするかのように足を高々と上げ、「ヤアっ!」と叫びながら着地し、そしていきなりクルッと振り返り両手をバッ!と広げ、ついでに「パフっ!」と放屁すると、振り向いた先に、迷惑そうな顔をした宿屋の女将が立っていました。
「あのぅ……」
 女将は表情ひとつ変えず、両手を広げて止まったままの僕に呟きました。
「父ちゃんと相談したんだけど、これ以上宿代が遅れるんならもう出てって貰おうかと思ってんだよね……」
 女将は、この宿で唯一の御自慢の「いのしし鍋」でも喰っていたのでしょうか、その吐き出す息には妙に濃厚なケモノ臭が感じられました。
「……わかりました。明日の朝一番で、実家の兄にすぐに振り込みさせますので……」
 僕は大きく開いた両腕をゆっくりと元に戻しながらそう答えますと、女将は「よろしくね……」と言いながら襖をパタン!と閉め、そして捨て台詞かのように「きちがい……」と呟きながら、ギシギシと階段を降りて行きました。

 僕はヘタヘタと床に座り込むと、机の上の原稿用紙にもう一度目を通しました。
 原稿用紙に殴り書きされた『水虫借金地獄』というタイトルを眺め、そもそもこのタイトルがいけないのだ、と、校長先生の「けしからん!」のように机をドン!と叩きました。

 窓の外から、ふいにフィリピンホステスの声が聞こえて来ました。その声を聞きながら、バブル期のフィリピンホステスというのは親父を見れば誰にだって「シャチョウさぁん!」と言ったものだが、しかし最近のフィリピンホステスは親父を見ると「オットウさぁん!」と叫ぶ志向がある、と、ふと思い、すかさず原稿用紙に「シャチョウさんとオットウさん」と殴り書きし、そしてその横に「景気に左右される親父の呼び名」と書き足しました。
 ふと窓の外を見ると、いかにも昭和の場末のスナックホステスが着ているような、古くっさい原色肩パットスーツでビチッ!と決めたフィリピンホステスの軍団が、浴衣姿の酔客に抱きつきながら「オットウさんアソんでイクカー!」とスタッカートな叫び声を上げていました。
 僕は煙草の箱の中に隠しておいた1万円札をスっと抜き取ると、それをポケットに入れながら破れた襖に向かって「オットウさんアソんでイクカー!」と、フィリピンホステスのマネをしました。
 するとまたしても襖がサッと開き、洗いざらしの枕カバーを手にした女将が、そんな僕を見てギョッ!としたのでした。

 携帯の時計は22時を示しています。
 そろそろマキが『バッカス』に出勤してくる頃です。
 僕は最後の一万円札をポケットの中で握りしめると、女将に見つからないように足音を忍ばせて旅館を出ました。

 外に出ると、路上には、まるでハイエナのように浴衣親父に群がるフィリピンホステスたちが狂喜乱舞しておりました。
 そのうちの1人が僕をジッと見つめております。
 僕が歩き出すと、彼女はいつものように「ドコイク!」と職務質問してきました。
 僕もいつものように「ちょっと……」と笑います。
 フィリピンホステスは、去って行く僕の背中に向かって「ショウセツ、カイテルカ!」と叫びました。
 僕はそんなフィリピンホステスに無言で手を振ると、あたかも文豪らしく不敵にニヤニヤ微笑みながらマキが待つあの上海の売春窟のような路地に向かってゆっくりと歩き出したのでした。

(天国へのキッス・完)

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