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どぶねずみ

2012/01/04 Wed 02:20

    どぶねずみ
 綺麗な店だった。歌舞伎町のどの店よりも豪華でスタイリッシュに輝いていた。
 そうあの頃のあいつのように・・・。

 俺がその店に行ったのは、四年の務めを終えてしばらくのことだった。
 昔の兄弟分が、俺の出所祝いにと、新宿の極道を集めた場を用意してくれたのだが、しかし俺は断った。
 俺は昔の俺じゃない。そう、俺は極道の世界から足を洗った男だからだ。
 服役中に組が解散したのをきっかけに、俺の悪党人生もこれが潮時だろうと獄中で足を洗う決意をした。
 物心ついた頃からヤクザな世界でメシを食って来た俺が、今更どうやって生きて行けばいいのかわからなかったが、しかし、ここらが潮時だ。ネオンの街をビビりながら肩で風を切って歩くのにももう飽きた。
 代紋を持たない極道はただのドブネズミだ。今更、金ピカの兄ぃ達の前にドブネズミの姿を御披露した所で恥をかくだけなのだ。だから俺は兄弟分のせっかくの厚意を辞退させてもらったのだった。
 兄弟とは、ガキの頃から共に新宿で泥を喰って来た戦友だった。
 しかし今は立場は違う。あいつは華やかな新宿の兄ぃで、俺はヘドロにまみれたドブネズミ。
 そんな兄弟は、俺の意地っ張りな性格を知っているのか、それ以上無理強いせず、じゃあ2人で飲もうや、と笑ってくれた。
 しかし俺のポケットの中には8千円しかなかった。

 出勤前の優子を呼び止めた。真っ赤なドレスに安もんのコートを羽織った優子が「ん?」と振り返る。相変わらずの丸い目は小動物を連想させた。
「おまえ、今、いくら持ってる・・・」
 八畳ワンルームの片隅で、俺は言いにくそうに靴下を弄りながら聞いた。
 痩せても枯れても極道でメシを食って来た俺には、女の財布をあてにする事が何よりの生き恥なのだ。
 優子が「えっとね・・・」と言いながらバッグを開く。優子のくたびれたバッグの中には、街角で配っているポケットティッシュしか詰まっていない。
「6千円ある・・・」
 優子は申し訳なさそうに俺の顔を見つめながら、財布からしわくちゃの千円札を取り出し俺に渡した。
「でも、そうしたらおまえのタクシー代がないだろ」
「大丈夫。歩いて行くから」
 優子はあらいぐまのような丸い目をして、人懐っこく笑った。
 ここから優子が勤める歌舞伎町の店までは歩いて30分はかかる。しかも外はどしゃぶりの雨だ。
 俺はその千円札を黙って優子のバッグに戻すと、その場にごろりと寝転がった。
「いくらいるの?・・・」
 優子が恐る恐る俺の顔を覗き込んだ。安物の化粧品の匂いがいじらしい。
「いいよ。いらねぇよ・・・」
 俺はこれ以上の生き恥をかきたくなくて、早く優子に部屋から出てって貰いたくて、ジッとテレビを見つめたままわざと突っ慳貪にそう言った。
「これからお店に行って、もう一度前借りお願いしてみるから・・・ねぇ、いくらいるの・・・」
 優子は俺の機嫌が悪くなったのかと焦りながら、恐る恐る俺の肩に静かに手を置いてそう言った。
「うるせぇ。ガキのくせにゴタゴタ言ってんじゃねぇ。いらねぇって言ったらいらねぇんだよ。とっとと店に行って来いよ」
 俺は肩に乗ってた優子の小さな手を振り解きながら、しかめっ面で煙草を銜え、そして火を付けないままテレビを睨みつける。
「・・・ごめんね・・・」
 背後から優子の声が聞こえた。フローリングをスリスリと歩く音が聞こえ、安物の化粧品の匂いが遠離って行く。
「・・・行ってきます・・・」
 優子の小さな声と共に、おんぼろマンションの扉がカチャッ・・・と弱々しく閉まった音がした。
 優子が出て行った先をゆっくり振り返ると、寝転がっていた俺の背後には、くだらねぇ小説が書きかけの原稿用紙と、そしてしわくちゃの千円札が6枚、冷たい蛍光灯に照らされていたのだった。

 四年ぶりの歌舞伎町だった。あの頃とは随分ネオンの色も変わっていたが、しかしこの独特な人間臭はあの頃となんにも変わっちゃいなかった。
 湿ったピンクチラシが地面にベタリと張り付いている雨上がりの歩道を歩いていた俺は、ふと、ビルのショーウィンドゥに映る自分の歩き方を目にし、慌ててポケットから手を抜くとスッと背筋を伸ばした。いくら極道の足を洗ったとて、この長年どっぷりと裏社会を歩いて来た歩き方がすぐになおるわけじゃない。
 背筋を伸ばしながら風林会館の前まで行くと、ビルの前で携帯電話を耳にあてていた若者が、俺の顔を見るなり携帯をパタンっと閉じ、ギラギラとした目で微笑みながら「お久しぶりです」と俺の顔を覗き込んだ。
 若者はスマートな濃紺のスーツを羽織り、銀行員のような髪型をしていた。見覚えのない若者だったが、そのギラギラした目の輝きからヤクザもんだとわかる。
「兄貴が中でお待ちしておりますので・・・」
 そう言いながら喫茶店の中に入って行く若者の後に付いて行く俺は、その若者の後ろ姿を見つめながらふいに思い出した。そいつは、四年前、俺が務めに行く少し前、兄弟の舎弟になった歌舞伎町のホストの少年だ。
 俺はそんな若者の背中に「おい」っと声を掛けた。
 歩きながら「はい」と振り向いた若者の表情には、あの時のチャラチャラしたガキの面影はすっかり消え、修羅を彷徨う極道の面構えをしていた。
「頑張ってるな」
 俺がそう笑うと、若者は「覚えててくれたんですか」と、急に人懐っこい笑顔で笑った。
 すると突然、「おい!兄弟!」と、人が溢れる巨大な喫茶店の窓側でそう叫びながら男が立ち上がった。
 コーヒーを啜っていた台湾ホステスやスポーツ新聞を読んでいた白タクの運転手がチラッと男を見るが、しかし、叫んだ男のその人相を見て慌ててスッと視線を元に戻す。
「ちょっと痩せたよなぁ!」
 兄弟は、まだ俺が兄弟の席に辿り着いていないというのに、もう待ち切れないといった感じで遠くから嬉しそうにそう叫ぶ。
 相変わらずのせっかちだ。ガキの頃から変わらない坊主頭には、その脳天から左耳にかけて30センチほどの傷跡がムカデのように這っている。あの傷は、あいつが俺と一緒に本部の部屋住みをしていた頃、幹部連中が徹夜麻雀している最中に事務所のソファーで大鼾をかいて寝てしまい、先輩の兄ぃから灰皿で頭を叩き割られた時の傷跡だ。
「くっくっくっくっくっ・・・」
 兄弟は嬉しそうに笑いながら、俺の懲役痩せした細い腕を、指が三本しか残っていない右手でパンパンと叩き、「アイスか、それともホットか」と目をギラギラさせては聞いて来た。
 しかし兄弟は俺の返事を聞く前に、「いや、コーヒーなんて飲んでる場合じゃねぇ、出よう」と、椅子に座りかけていた腰を急に立ち上がらせると、「おい!哲雄!行くぞ!」と、店を出ようとしていた若者にまたしても大きな声でそう怒鳴り、再び周りにいた台湾人ホステスたちを悪戯に怯えさせたのだった。
「兄弟。どうしても兄弟を連れて行きたい店があるんだよ・・・」
 兄弟は子供のように含み笑いをしながらそう言うと、相変わらずのせっかちは衰える事を知らず、そのままズカズカと早足で歌舞伎町のネオンの中へと向かって行ったのだった。

「御苦労様です」
 歌舞伎町の大通りから路地裏まで、この街でシノギを削っている汚れ達が、歩道を闊歩する兄弟を見ては慌てて頭を下げた。
「あのキャバクラは去年できた店だよ。関西の菱モンジのフロントなんだけどな、ま、毎月の付き合いはちゃんとしてっから大目に見てやってんだ」
 兄弟がそう指すキャバクラのビルの前を通り過ぎようとすると、ビルの前にいたボーイが「お疲れやす」と関西弁混じりに小さく会釈した。
 今度はその先のビルを指差しながら「あそこの地下は大嶋の叔父貴が面倒見てるジノカだよ」と言い、そしてまた別のビルを指差しながら「あの焼肉屋は金貸しの金ちゃんが先月オープンさせたんだ」と、まるで歌舞伎町の裏ガイドのようにあれこれと説明し始めた。
 そんな兄弟が俺を連れて来たのが、つい先日オープンしたばかりのクラブだった。
 場所は歌舞伎町でも一等地にあるビルの最上階。大きな窓から新宿の夜景を見下ろすその店は、床も壁も真っ白な大理石だった。
「どうだい兄弟。懲役のクリコン壁と比べたらここは天国だろ」
 まるでローマ宮殿のようなその店内をキョロキョロとしている俺に、兄弟はニヤニヤ笑いながらそう耳元で囁いた。
 そしてそのまま続けて俺の耳元に囁いた。
「びっくりするのはまだ早いぜ・・・ほれ、おでましだ・・・」
 兄弟がそう目で合図する先には、ひとりの女が立っていた。
 一瞬、そこに立ちすくんでいる女が誰なのかわからなかった。しかしその切れ長な大きな目を見つめているうちに、急に懐かしい香りが俺の鼻孔の奥にふっと広がった。
「お帰りなさい・・・・」
 女はそう言いながらゆっくりと俺達が座るボックスに近付き、潤ませた目でニヤッと俺に笑いかけると、「少し痩せたね」と静かにソファーに腰を降ろした。
 翔子・・・
 その名前を頭の中で呟いた瞬間、俺の中にあったケジメが激しく揺らいだのだった。

 翔子とは、俺がまだ三下小僧の時代からの付き合いだった。
 三下ヤクザと小さなスナックのホステス。そんな2人は知らず知らずのうちに一緒に暮らし始め、気がつくと翔子は俺の女になっていた。
 若い頃から刑務所を出たり入ったりしていた俺だったから、翔子も待つ事には馴れていた。あの頃、怖いものなんか何もなかった。金も力もない小僧だが、しかしいつかこの街でのし上がってやるぞというハングリーな若さと、そしていつも笑顔で待っていてくれる翔子がそんな俺を支えてくれていた。
 が、しかし、今回は違った。
 刑務所の中で組の解散を聞かされた俺は堅気の道を選んだ。それは、今まで俺が死に物狂いで手に入れて来たものを全て失うという事でもある。
 この世界しか知らずに育って来た俺にとって、今更のそれはあまりにも無謀過ぎる一大決心だったが、しかし、何も残ってなくとも俺には翔子がいる、と、俺は獄中の中でひとつの希望に縋り付いていた。
 そんな決心を俺は面会で翔子に告げた。
 翔子は黙っていた。淋しそうに面会室を仕切るアクリルの小さな穴を黙って見つめていた。
 そしてそれっきり翔子からは手紙もなく、そして面会も途絶えた。
 そんな俺は、薄暗い独居房の隅で少しだけ泣いた。いや、それは悲しくて泣いたのではなく怖くて泣いたのだ。
 翔子が、あの最後の面会室で言った「あんた、ヤクザしか知らないのに、これからどうやって生活して行くつもり」という言葉を何度も何度も頭の中で繰り返し思い出しながら、ひとり恐ろしくなって泣いた。
 そう、俺からヤクザという肩書きが消えたら俺はただのドブネズミだ。身体中どっぷりと泥水に浸かってしまったドブネズミが、今更真っ暗なドブの中から這い出てて来て、どうやってお日様のあたる世界で生きて行けばいいんだ。
 怖かった。堅気になるというのがこれほど怖いものとは思わなかった。
 しかし、もうケジメをつけた事だ。今更、女に見捨てられたからやっぱりヤクザのままでいよう、なんて思うくらいなら、独居房の隅の便器に頭を叩き付けて獄中死した方がましだ。
 そうやって俺は、翔子と別れてからの残刑2年の懲役を、恐怖と戦いながら歯を食いしばってひとりで生き抜いた。
 そして今、ヤクザの世界から足を洗った俺は、再び翔子とこの天国のようなクラブで再会したのだった。

「翔ちゃんさ、この店でママやってんだぜ。スゲェだろ。ま、スポンサーが何人か付いてっから実際は雇われママだけどさ、でも、数年もしたらこの店は翔ちゃんのモノだよ。だってこの店の客はほとんどが翔ちゃん目当てのベースケ野郎ばかりだもんな」
 兄弟はなぜかやたらと嬉しそうにそう言うと、ひとりでゲラゲラと笑いながら、場違いな下品な笑い声を店内に響かせた。
 翔子はクスッと笑いながら、俺がいつも好んでいたクラッシュアイスをグラスの中にジャラジャラっと入れると、俺が好きだったブランデーを少しだけ垂らした。
 四年経った今でも翔子は俺の好みを覚えていてくれている。
「ちょっと痩せたみたいだけど、でも全然変わってないね」
 翔子は真っ赤なルージュを照明に輝かせながら俺の前にグラスをソッと置いた。
「あぁ、兄弟は何にも変わっちゃいねぇよ。あん時のまんまだよ。な、兄弟」
 そう言いながら俺の肩をパンパンと叩く兄弟は、二本も欠損した指でさっそくグラスを高々と持ち上げると、「乾杯!」と大声で叫びながら俺のグラスと翔子のグラスにカチンカチンとグラスを打つけて来た。
 そしてグラスの酒をチュッと一口舐めた兄弟は、凭れていたソファーからゆっくりと体を起こしては前屈みになると、静かに俺の顔を見上げながら呟いた。
「兄弟の席は用意してあるから・・・」
 兄弟はそう呟くと、ゆっくりと翔子を見た。
 翔子は何もかもを知り尽くしたような菩薩のような表情で俺の目をジッと見つめたまま、ゆっくりと優しく頷いたのだった。

「今のおやっさんは遅かれ早かれあと数年で引退だろう。・・・跡を取るのはカシラの和泉さんだよ。もう決まってんだ・・・」
 兄弟はテーブルの上のチョコレートを口に放り込みながら言った。和泉というのは、俺達が不良少年だった時代の先輩で、今では歌舞伎町ではちょっとした兄ぃだった。
「カシラがさぁ・・・どうしても兄弟を戻せってうるせぇんだよな・・・わかるだろ兄弟、あの人、昔っから兄弟の事、気に入ってたじゃねぇか・・・」
「実はよぉ兄弟・・・」
 俺は慌てて兄弟の言葉の腰を折った。
「ん?・・・・」
 兄弟が太い眉を八の字にさせながら俺を見た。
 しかし俺は、今、小説家を目指しているんだ、という言葉を言い掛けてその言葉を慌てて飲み込んだ。
 小説家。そんな世界が兄弟にわかるわけがなく、鼻でフフンっと笑われてしまうのがオチだと思ったからだ。
「・・・とにかくよぉ、カシラに付いてけば間違いねぇって。俺達みてぇに組が潰れた外様のモンでもよ、あの人はしっかりと面倒見てくれるぜ」
 兄弟がそういうと、翔子が「それに・・・」っと口を挟んだ。
「・・・和泉さん、あなたの事をいつも心配してくれてたわ。このお店の資金もね、あなたがシャバに出て来てからのシノギになればいいからって、半分も援助してくれたのよ・・・」
 翔子がそう言うと、兄弟が「くくくくく」っと笑いながら俺の肩を抱いた。
「要するによ、この店は兄弟と翔ちゃんの店って事よ。な、すげぇだろ」
 兄弟はそんな俺の暗い顔を覗き込みながら「すげくねぇか?」と目を点にした。
「・・・いや、凄いけど・・・しかし・・・」
「しかしも糞もねぇって兄弟。この店はよ、一日の売上げ200は軽く越えてんだぜ。こんないいシノギ、今の御時世どこにもねぇぜ、なぁ翔ちゃん」
 兄弟がそう言うと、翔子は暗い表情の俺を見つめたまま、不安げな目をして静かに頷いた。
「とにかくよぉ兄弟。堅気になるなんて夢みてぇな事はよ、とっとと忘れちまったほうがいいよ。実際シャバに出て来てどうだい、まともにメシ喰って行けねぇだろ?そりゃそうだよ、今の時代カタギだってロクにメシ喰っていけねぇほどの不景気だ、ムショ上がりの元極道の兄弟がどうやって凌いでくんだよ。刺青だらけの体してよ前科ぶら下げた兄弟がよ、この御時世カタギでやって行くなんて絶対に無理だって」
 兄弟は一気にそう言うと、水滴の付いたグラスをクイッと傾け、濃厚な水割りを一気に飲み干した。
 空になった兄弟のグラスを翔子が取ろうとすると、兄弟は「いや・・・」とそれを制止した。
「まぁ、兄弟よぅ。今晩ゆっくり翔ちゃんと2人で考えろよ。兄弟の腹が決まり次第、すぐにでもカシラとの盃は出来るように準備できてっから・・・」
 兄弟はそう言ってゆっくりと立ち上がると、「明日、いい返事を待ってるから」と人懐っこい笑顔でそう言い席を立った。
 怒り肩の坊主頭が、まるで周囲を威嚇しているかのようにノッシノッシと出口に向かって歩いて行く。そんな坊主頭に残酷に浮かび上がるムカデ傷が彼の獰猛な人生を物語っているようだった。
 ドアの前でふいに足を止めた兄弟は、何かを思い出したようにゆっくりと振り向いた。
「久々の再会だからって、今夜、あんまりヤリすぎないように」
 ポツリとそう呟くと、ひとりでガハハハハハっと笑いながらドアの前に立っていたボーイに「また来るぜ」と手をあげると、そのまま大きな笑い声を響かせて店を出て行ったのだった。

 兄弟の野蛮な笑い声が消えると共に、店の隅の白いグランドピアノからはドビュッシーの『月の光』が店内に優しく流れ始め、今まで妙な緊張感に包まれていた店内の雰囲気が一瞬にして穏やかに変わった。
 この『月の光』は刑務所で四年間毎日聴き続けた曲だった。俺のいた刑務所では就寝五分前になるとラジオから必ずこの曲が流れ始めるからだ。
 静まり返った舎房に響く『月の光』はとても淋しかった。受刑者達はこの曲を聴きながらやっと一日が終わると言う安堵感に包まれ、そしてあと何回この曲を聴けば自由になれるのだろうと布団の中で指折り数えるのだ。
 そんな俺も毎晩布団の中でこの曲を聴きながらシャバへの不安を募らせていた。だから俺にとってこの曲は、苦しさと淋しさしか思い出させない辛い曲だった。
「ごめんね・・・面会に行かなくて・・・」
 翔子はまるで『月の光』を奏でるかのような優しい声でそう呟いた。
「・・・もういいよ・・・」
 俺はポケットから煙草を取り出しながら、ゆっくりと翔子の顔を見た。
 2年ぶりに見る翔子は美しかった。菩薩のような切れ長の目からは優しさだけが溢れ、その優しいオーラはあの頃のように俺を心地良く包み込んでくれた。
「・・・だめ?・・・」
 翔子は、煙草を銜えた俺の口元に金色に輝くライターの火をそっと近づけながら囁いた。体を寄せる翔子からは四年前に一緒に暮らしていた部屋の香りが漂ってきた。
「なにが?」
 俺がそう聞くと、翔子は一度静かに目を伏せ、そして再びゆっくりと俺を見上げると「私たち・・・もうダメかな・・・」と呟きながらキラキラ光る下唇を真っ白な前歯でキュッと噛み締めた。
 俺は言葉に詰まった。実際、何と答えていいのかわからなかった。
 確かに俺はまだ翔子に未練がある。それに、シャバに出て来てから随分と荒んだ生活をしてきた俺にとって、この空気は四年前の忘れかけていたあの頃の楽しかった昔を思い出させてくれる。
 出来る事ならこのまま昔に戻りたい。そして昔のように翔子と兄弟とおもしろおかしくこの街で夢を追いかけたい。
 しかし・・・
 俺はグラスを静かに口元にあてると、グラスの中で溶けかけたクラッシュアイスで火照った唇を冷やした。
「私・・・あなたが出て来るのをずっと待ってた・・・あなたがまたこの街に帰って来るのをずっとずっとひとりで待ってたの・・・・」
 そう呟く翔子をそっと見上げると、俺を見つめる翔子の大きな目はぼんやりと潤んでいた。
 俺と目が合うなり、翔子はそんな淋しい瞳の輝きを掻き消すかのようにフッと笑った。
 俺も釣られて唇を歪ませた。
 そんな俺の照れ笑いを返事だと受け取ったのか、翔子はいきなり小さなポーチを静かに開けると、中から銀色に輝く鍵を取り出しそれを俺の煙草の箱の上にソッと置いた。
「アヴェニール新宿の805号室。・・・ほら、覚えてるでしょ、昔、あなたがいつもあんなでっけぇマンションに住みてぇなぁって見上げてた、あの西新宿の・・・・」
 翔子はあの頃のギラギラした俺を思い出したようにクスッと笑った。
「あぁ、覚えてるよ・・・」
 俺は、銀色に輝く鍵を見つめながら、あの頃、そのマンションを見る度に、いつかは俺もこんなでっけぇマンションに住んで新宿を見下ろしてやるからな、と口癖のように能書きを垂らしていたガキの頃を思い出した。
「あなたが喜んでくれるかと思って・・・あのマンションに引っ越したの・・・」
 翔子は恥ずかしそうにそう微笑みながら、俺が銜えたままの煙草を細い指でそっと唇から抜き取ると、溢れそうな煙草の灰を灰皿にポトッと落とし、また俺の唇に煙草を銜えさせた。
「お店、あと二時間くらいで閉めるから・・・先にお部屋に帰ってて・・・」
 翔子は優しく笑うと、持っていたハンカチをポーチに仕舞い、「じゃあね」っと、あの頃と同じようにウィンクしながら静かに席を立とうとした。
「おい・・・」
 低い声で俺が呼び止めると、翔子は無言で振り向き、大きな目を輝かせながら「ん?」っと首を傾げた。
「本当に・・・いいのか?・・・」
 俺は銀の鍵を指で摘みながら聞いた。
 翔子は再びふっと微笑んだ。
 そして、「あなたが昔ずっと着ていたパジャマ・・・ソファーの上に出しておいたから」と嬉しそうにそう言うと、翔子はその笑顔のまま『月の光』が優しく流れる店の奥へと静かに消えて行ったのだった。

 エレベーターを降りると、深夜の歌舞伎町はムッとした熱気に包まれていた。
 青い水銀灯に照らされたビルの前には、黒光りした高級車が二台、ビルの正面を塞ぐようにして停まっていた。車の前には運転手らしき体格のいい男が2人、ニヤニヤと笑いながら立ち話をしている。
 ひとめでヤクザ者とわかる男達だった。
 雑談している2人の口調と、2人が着ている趣味の悪いダブルのスーツから、彼らが関西の極道というのが読み取れた。
 そんな2人は、エレベーターホールからゆっくりと歩いて来る俺にピタリと雑談を止め、一瞬鋭い眼光を俺に向けてきた。
 四年前の俺だったら、間違いなくその黒光りの車の前まで行き、「邪魔だからどけろ」と、車のボンネットに唾のひとつも吐いていただろう。しかし今の俺はもう昔の俺ではない。今の俺には代紋というバックボーンはないのだ。
 俺はゆっくりと進みながら、ポケットからソッと手を抜くと、曲がっている猫背を静かに伸ばした。
 そして2人の男達からさりげなく視線を反らすと、そのまま連なる二台の車の隙間をすり抜けようとした。
「おい・・・あっち回らんかい・・・」
 ぶくぶくに太った男がそう言いながらいきなり俺の前に立ち塞がった。
 一瞬、怒りで脳がクラっと揺れる。
 ビルの前に置いてある『桃色学園2年H組』という大きな看板を、その車のフロントガラスに叩き付け、目の前にいるデブの醜い二重アゴにおもいきり拳をめり込ますシーンを瞬時に妄想した。
「なんやその顔・・・」
 北国のキタキツネを連想させる痩せ細った男が、革靴の底をジャリッと音立てながら俺に一歩近付いた。
 俺は無言で素早く体を方向転換し、彼らから逃げるようにしてビルの右端の狭い隙間に向かって足を早めた。。
 そんな俺の背後から「ボケがぁ」というデブ男の捨て台詞が聞こえたのだった。

 正直、泣きたいくらいの敗北感だった。
 決して俺はケンカなど強くないが、しかし今まで尻尾を巻いて逃げた事は一度もない。叩かれ蹴られてボロ雑巾のようにされた事など数え切れないほどあるが、しかし一度だって相手に背を向けた事はなかった。
 俺は悔しさのあまり歩道のピンクチラシを蹴飛ばしながら「畜生・・・」っと呟く。
 そんな怒りと悔しさはいつまでも心の隅で燻っていた。知らぬうちに猫背になって歩いている俺は、今すぐにでもあいつらの所に引き返し、あの黒光りの高級車を金属バットでグシャグシャにしてやりたいとそればかりを妄想している。
 そんな妄想を抱きながら歌舞伎町の路地を歩いていると、やっぱり俺には堅気は無理なのかも知れないという不安に包まれた。
 このまま中途半端な堅気でいれば、この先、こんな悔しい思いは何度も何度も味わう事になるのだろうと首筋が寒くなった。そしてその度に俺はこうして生き恥を晒さなくてはならないのかと考えると、急に悔しさで胸がゾクゾクし、おもわずその場で気が狂いそうになった。
 やっぱり無理だ、俺には堅気なんて無理なんだ。そうだ、兄弟や翔子の言う通りなんだ。やっぱり俺はどっぷりと極道の世界に浸かってしまったヨゴレなんだ、いくら気分は堅気になってても、俺のこの体に染み付いた汚れは四年前と何にも変わっちゃいねぇんだ。
 そう心で呟きながら、明日さっそく兄弟に連絡しようと思った瞬間、いつの間にか見慣れた路地裏に辿り着いていた事にふと気付いた。
 その細くて薄汚い路地裏は、優子が働いているピンクサロンへ向かう路地裏だった。
 優子がその店で働くようになってからの数日間は、いつも店が終わる頃に優子を迎えに来ていた、薄ら寂しい路地裏だった。
 そう、翔子のマンションへと向かっているはずの俺は、あれこれと考えながら歩いているうちに、いつの間にかこの通い馴れた路地裏に来てしまっていたのだ。
 足を止めた俺は、どこかの雑居ビルから聞こえて来る、まるで叫んでいるかのようなキチガイじみたカラオケに包まれながら、路地の奥でチカチカと輝いている下品なピンクサロンのネオンをぼんやり見つめていたのだった。

 優子がその下品なピンクサロンで働き始めたのは、俺と知り合ってから一週間も経たない頃だった。
 ひょんな事から優子という女と出会ったその日、出所して間もなかった俺は人恋しさから優子を抱いた。
 まっさらの堅気だった優子は、俺のような汚れた獣に抱かれることにより、汚れの知らないその心と体をみるみると俺色に染めていった。
 まるで純粋な学生が同棲生活するように舞い上がった2人は、さっそく薄汚いワンルームマンションを借り、その布団1枚しかない殺風景な部屋で暮らし始めた。
 炊飯ジャーも買えなかった俺達は、いつも近所の吉牛から白飯だけを売ってもらい、優子がバイト先の居酒屋から拝借して来た鰹節をふりかけては醤油をぶっかけて喰っていた。
 優子は優しい女だった。
 毎日毎日バカみたいな小説を必死で書いている俺を見ては、「芥川賞を受賞したらもっと広い部屋に引っ越そうね」と微笑み、俺の小説など一度も読んだ事がないくせに、俺は小説家として絶対に成功するんだといつも言ってた。
 そんな2人の生活は毎日が楽しかった。しかし生活はどん底だった。堅気の仕事ができない俺の代りに、優子は昼も夜もバイトをしていたが、しかしスーパーや居酒屋の安い時給では、ここのマンション代を支払うのが精一杯だった。
 ある時俺は、もっと家賃の安い下町に引っ越そうと決めた。そして、アパート情報紙をあれこれと見つめていると、ふいに優子がその情報紙をパタンっと閉じ、そっと俺に言った。
「新宿のネオンが見える部屋じゃないといい小説書けないんでしょ?」
 優子はそう笑うと、バッグの中から街角で配布されているポケットティッシュを俺の前に置いた。
 それはピンクサロンの求人募集が印刷されたポケットティッシュだった。
「芥川賞を取るまで私が働くから。なにも心配しないで、この新宿が見えるマンションでいい小説を書いてね」
 優子は丸い目をキラキラと輝かせながらそう微笑んだのだった。

 ふいに俺のポケットの中の携帯が震えた。
 それと同時に、路地の奥のピンクサロンのネオンがパッと消えた。
 急に暗くなった路地裏でソッと携帯を取り出す。
 メールは優子からだった。
 俺は、雑居ビルの排水口からドブ臭い汚水がドボトボと流れ出す音を聞きながら優子のメールを開いた。

『今お店終わったよ♪今日はお店が暇だったから全然チップ稼げなかった(涙)。でもね、店長にお願いして二万円前借りしてもらったよ♪今から帰るね。歩いて帰るからちょっと遅くなるかもしれないけど心配しないでね♪』

 パタンっと携帯を閉じた瞬間、路地裏のビルの隙間から都庁のてっぺんの赤ライトが点滅しているのが見えた。
 翔子の高級マンションからはきっとあの巨大な都庁が真正面に見えるはずだ。
 毎日二百万円近くの売上げと高級マンション。そして俺はあの頃のようにイタリーのスーツを羽織って我が物顔で歌舞伎町をのし歩く。
 想像するとおもわずふっと笑いが込み上げて来た。
 再び雑居ビルの排水口がゴボッと音を立てた。白く輝く米粒混じりの汚水がドボドボと真っ暗なドブの中に落ちて行く。
 そんなドブの底をふと見ると一匹のドブネズミがヨタヨタと這っていくのが見えた。
 それはまるで自分を見ているようだった。お天道様の下にも出れず、かといって夜の大通りを堂々と歩く事も出来ず、ただただ路地裏のヘドロ臭い真っ暗なドブの中をコソコソと彷徨い歩く一匹のドブネズミ。
 そんなドブネズミを見つめていると、ふいに路地の奥から足音が聞こえてきた。
「あっ!」
 そんな声の先に俺がゆっくりと顔をあげると、そこには安物のコートを羽織った優子がまるで幽霊でも見たかのような驚いた顔をして突っ立っていた。
 優子は俺を見つめて「ふふふふふ」っと嬉しそうに笑うと、俺に向かって暗闇の路地を走って来た。
 それはまるで飼い主を見つけた子犬のようだ。
「迎えに来てくれたの!」
 優子は俺の前まで一気に走って来ると、ガサガサに化粧が落ちた顔を月夜に浮かばせながら、なぜか嬉しそうにピョンっと一回飛び跳ねた。
「別に迎えに来たんじゃねぇよ・・・」
 俺が優子のそのガサガサに落ちた化粧をジッと見つめながらぶっきらぼうにそう言うと、優子はそれに気付いたのか、両手で頬をパッと隠しながら「今日ね、酔っぱらいのおじさんを怒らせちゃってね・・・顔にお酒ぶっかけられちゃった」と、恥ずかしそうにへへへへっと笑った。
「・・・なんで怒ったんだよ・・・」
 眉間にキュッとシワが寄った俺の目を見て、優子は慌てて「わかんない・・・」っと誤魔化した。
 しかし俺にはその酔っぱらいのオヤジが怒った理由がすぐにわかった。
 それは、優子が客に胸を触らせないからだ。
 こんな事は今までにも何度かあった。先日も左頬を赤く腫らせて帰って来た優子を見た俺はその理由を問い詰めた。
 するとそれは、ドカタのおっさんがいきなり優子のスカートの中に手を入れてきた為、それを優子が拒否するといきなりそのドカタが優子の頬を叩いてきたというのだ。
 それ聞いて怒り狂った俺は、さっそく店に怒鳴り込んでは店長を締め上げてやった。
 それからというもの、どんな些細な事でも俺は店長を呼出し、「てめぇの管理がなってねぇんだよ!」と凄んでは店長を震え上がらせていたのだった。
 そんな事がある度に優子は「お店に行き辛い・・・」っとしかめっ面をしていた。だから優子は、この時もまた俺が店に怒鳴り込みに行くのを怖れていたのか、客に酒をぶっかけられた理由を正直に言おうとはしなかったのだ。
(バカな女だ・・・・)
 俺はそんな優子の、酒で滲んだアイラインを見つめながらつくづく思った。
 やはり、ついこの間まで堅気の大学生だった優子にはピンクサロンという世界は無理なのかも知れない。
 そう、こいつは俺とは逆なのだ。どっぷりとヤクザに染まった俺が堅気の世界に馴染めないように、まっさらな堅気のお嬢様は路地裏の世界には馴染めないのだ。
 俺はそう思った瞬間、この堅気のお嬢様をすぐに解放してやらなくてはと急に焦りを覚えた。
 黒が白になるのは難しいが、しかし白が黒に染まるのは容易い事だ。
 この娘を黒く染めてはいけない・・・・
 そう焦った俺は、静かに優子の細い肩に手を置いた。
 そして、優子の顔を見つめながら別れを切り出そうとした時、いきなり優子は安物のコートのポケットの中からしわくちゃの一万円札を二枚取り出した。
 優子は「んふっ」と満面の笑みを浮かべながら「はい」っと俺の手に二万円を押し込んだ。
「・・・あのさぁ・・・」
 そんなしわくちゃの二万円を見て、急にやりきれなくなった俺が口を開くと、「まだ足りない?」と優子は悲しそうな顔で俺を見つめた。
 瞬間、俺は優子のその汚れなき瞳に胸を掻きむしられた。
「足りないなら・・・もう少し店長にお願いしてみる」
 優子はそう言うと、クルッと俺に背を向けてまた路地を走り出そうとした。
(こいつはどうしてここまで必死になれるんだ・・・)
 そう思った俺はおもわず「待て」っと優子を呼び止めた。
 俺の声に優子は無言で振り返った。
(こんなガキが必死になれて、俺が必死になれないわけがない・・・)
 そう思った瞬間、優子の顔を優しく見つめていた俺は「もういいよ・・・金、必要なくなった」と笑っていた。
 しかし優子は、そんな俺の笑顔に戸惑いながら「でも・・・」っと、化粧の落ちたアライグマのような顔でモジモジする。
「いらねぇって言ったらいらねぇんだよ。ガキがゴタゴタ言ってんじゃねぇ」
 俺はいつもの口調でそう言うと、ポケットの中から翔子の部屋の鍵を摘み出し、躊躇う事なくドブに向けて鍵を投げた。
 ペチャっとヘドロの上に落ちた銀色の鍵は、真っ黒なドブの中で新宿の月夜に照らされながらキラッと輝いた。
 そんな鍵を見つけたドブネズミがヨタヨタと鍵に近付き、小さな鼻をヒクヒクさせながら匂いを嗅ぐが、しかしすぐに興味なさそうにまたヨタヨタとドブの暗闇の中へと向かって歩き出した。
「・・・なに捨てたの?・・・」
 優子はドブの中の鍵を不思議そうに見つめながら呟いた。
「なんでもねえよ・・・帰るぞ」
 そう歩き出した俺は、暗黒街にきっちりとケジメをつけた気がして清々しい気分だった。
 そんな猫背で歩く俺の背中に、いきなり優子が「ねぇ・・・マック買って帰ろうよぅ・・・」っと甘えた口調で呟いた。
「そんな汚ねえ化粧の女連れてマック行くのヤだよ」
 路地を一歩一歩進みながらそう言うと、「化粧直すからぁ・・・ねぇ行こうよぅ・・・」っと駄々をこねる子供のように優子が俺の腕にしがみついた。
 俺は優子の体をずっしりと腕に感じながら、もう一度鍵を捨てたドブに振り返った。
 まぁ、見てろ。今にその芥川賞とやらを奪い取ってみせるからよ・・・
 俺はドブの底に消えて行ったドブネズミに心の中でそう呟くと、優子と2人して薄暗い路地裏の暗闇に吸い込まれていったのだった。

  (どぶねずみ・完)


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