のぞぼとけ3
2012/05/31 Thu 00:14
何度か目が覚めた。その度に踞る布団の中から外の気配を伺った。
少し寝て、すぐ目を覚まして、と繰り返していくうちに、窓の外は明るくなっていた。
4度目に目を覚ました時には、既に部屋の中には光が溢れ、隣りの老婆の部屋からは朝のワイドショーの音が微かに聞こえて来るほどだった。
太陽の光というものがこれほど力強いと思った事はなかった。いつもは嫌悪感を感じる隣りの労働者のトイレの音も、今朝は安心感を与えてくれた。
布団からゆっくり起き上がると、布団に座ったまま携帯を探した。
携帯は、『CD・本』と書かれた段ボールの裏の、カーテンの下に転がっていた。
急いで準備をした。会社に行く前にドコモショップに寄り、この番号を変えてもらうのだ。
ドコモショップへ行くと、数人の女性従業員たちが朝日に照らされながら大きなショーウィンドゥを拭いていた。この番号を契約した時のおばさんを探したが、そこには見当たらなかった。
店に入って窓口に立つと、スーツ姿の青年が眠そうな目をして出て来た。
事情を説明した。すると青年はパソコンをカチカチさせながら、よくあるんですよね、と笑った。
一瞬、カチンっと来た。私がどれだけ怖かったと思ってるのよ、と言ってやりたかったが、しかしよくよく考えれば、ただの悪戯電話に過ぎないのだ。しかも、相手がいやらしい事を言ったり、脅すような事を言ったわけでなく、ただ単に「もしもしもし」を連続して呟き、「誠さん」と名前を叫んだだけなのだ。
青年は大きなマグカップでコーヒーをズズズッと啜ると、パソコンの画面を見つめたまま「番号、変えます?」と聞いて来た。大きなマグカップには、なぜか『LOOK・AT・ME』とプリントされている。
私は青年に、元の番号に戻して欲しいと頼んだ。新たな番号だと、また同じような怖い目に遭いかねないからだ。
青年は、元の番号に戻すのは、今、ここではわからないと言った。本社に問い合わせて見ますから少し時間を下さいと、ズズズッとコーヒーを啜った。
いつ頃になりそうですかと、私は足を組み直しながら聞いた。またしても青年のその態度にイライラしてきた。
今日は金曜日ですから早くても月曜日ですね、と、背伸びをするように事務椅子にふんぞり返った青年のスーツの袖には、乾いた米粒が塊になって付いていた。私はそれを教えてあげなかった。
会社に着くと、隣りの席の原山さんに「昨日の地震、凄かったね」と、朝の挨拶代わりに声を掛けた。
書類を並べ替えていた原山さんは「えっ?」と首を傾げた。私に振り向きながら「地震、あったの?」と目を丸くさせている。
嫌な予感がした。慌てて左隣に座っていた加賀さんに「昨日、地震あったよね?」と聞くと、加賀さんは「地震? どこで?」と驚いた顔をした。
予感は当たった。吐き気がした。一瞬にして額の毛穴から脂汗が滲んで来るのがわかった。
原山さんが、書類をぺしゃぺしゃと捲りながら、「どうせエッチな事してたんでしょ」といやらしく笑った。加賀さんが「やだぁ、震度いくつぅ」とふざけながら私の顔を覗き込んだ。が、私に笑い返す余裕はひと欠片もなかった。
額の脂汗を指で拭いながら、急いでネットを開いた。地震情報を検索し、一番最初のソコをクリックすると画面に日本地図が現れた。
沖縄本島近海・震度1、千葉県東方沖・震度2、和歌山県北部・震度1、福島県浜通り・震度2。
今日、地震があった地域と震度がズラリと並んでいた。しかし、東京の文字はどれだけ遡っても出て来ない。
震える唇からゆっくりと息を吐き出すと、なぜか突然、ドコモショップの青年のマグカップに書いてあった『LOOK・AT・ME』という言葉が頭に浮かんだ。
その日1日、仕事が手に着かなかった。仕事といっても、私のやる事といえば、全国の旅行代理店に配るDMのシール張りだけだったが、しかし、それさえもうまくできなかった。
帰りの駅のホームでは、電車を2本も見送った。駅のベンチに座る私は、マンションに帰るのが怖かった。
そのうち、辺りはどっぷりと日が暮れ、寒々とした蛍光灯に照らされるホームには粉雪がちらほらと舞い始めた。
昼食もまともに取っていなかったが食欲は全くなかった。スカートの膝の上に粉雪が薄らと積もっていたが寒さも全く感じなかった。今はただ、怖いだけだった。
いよいよ次の電車が最終だった。これを逃せばあの恐怖のマンションには帰らなくてすむが、しかし、行く宛は無い。
ふと、1年前まで付き合っていた真治の事を思い出した。真治とは半同棲のような暮らしをしていたが、彼の浮気が原因で、私から彼の元を去った。
そんな別れ方をしていたが、しかし彼なら事情を話せば1晩ぐらい泊めてくれるかも知れないと思った。そう思ったとたん、いつも2人でケンカしながらやっていたマリオカートを思い出し、あの部屋の匂いまでもが鮮明に甦り、私は懐かしさのあまりおもわず微笑んでいた。
とにかく真治に電話をしてみようと、コートのポケットから携帯を取り出した。
2つ折りの携帯をパカッと開いた瞬間、静まり返ったホームにいきなりマンドリンの音が鳴り響いた。
尖った爪で心臓を鷲掴みされたような衝撃が走った。咄嗟に頬の裏を犬歯で噛みながらディスプレイを見ると、やはりそこには『非通知』と表示されていた。
改札口が騒がしくなった。サラリーマンの団体がどやどやとホームに集まり、酔っぱらったOLの『六甲おろし』がホームに響いた。
いつもは毛嫌いしていた酔っぱらい達が、今は凄く心強く感じた。
今なら電話に出られると思った。あの陽気な酔っぱらい達に紛れながら電話に出て、あなたは誰、いったい私に何の用、と聞けるような気がした。
酔っぱらいの集団が、私が座るベンチの前で足を止めた。ネクタイをだらしなく緩めた中年男が、鳴り続けるマンドリンの音に気付き、「姉ちゃん、電話鳴ってるよ」と、酒臭い息を吐いた。
その瞬間、私は通話ボタンをピッと押した。サラリーマン達の力強い背中を見つめながら携帯をソッと耳にあてた。
携帯の向こうはシーンっと静まり返っていた。
私は、しばらく黙ったまま携帯の向こう側の様子を伺っていた。
グレーのスーツを着た若いサラリーマンが、ゴルフの素振りをする中年のサラリーマンに「逆立ちしたって部長には勝てませんよ」とお世辞を言った。ホームの隅では、六甲おろしを唄っていたOLが、二人のOLに背中を擦られながら大量の吐瀉物を撒き散らしている。
遠くの方から「ファン」という電車の汽笛が聞こえて来た。彼らが電車に乗ってしまう前に何か言わなければと焦った。気持ちは焦るが、しかし言葉が一向に出て来ない。
最終電車がホームに滑り込んで来た。酔っぱらい達の体が動き始め、ホームの隅で吐いていたOLも、いつの間にか連行されて来ていた。
電車の扉がプシャャャャャっと開いた。(どうしよう……)と、私の足が竦んだその時、突然、携帯の向こう側から「もしもし……」という女の声が聞こえて来たのだった。
その声は、あの狂気を満ちた声ではなかった。
声のトーンもその口調も、特に普通の女性と何ら変わりはなかった。
私はその声に安心しながらも、恐る恐る「もしもし」と答えてみた。
「……あのぅ……」
女は何かに戸惑いながらポツリと言った。
私は女が何かを言おうとする前に、「私、この番号に変わってまだ三日目なんですけど、誰かとお間違えになっていませんか?」と聞いてみた。
女は「あっ」と言い、「はい……」と言葉を詰まらせた。
そして、しばらく黙った後に、女は「……実は……」と話し始めた。そんな女の話しを聞いている間に、終電は私の前を通り過ぎて行ってしまったのだった。
駅から少し離れた大通りでタクシーを拾った。会社帰りにタクシーを使うのは初めてだった。恐らくタクシー代は、4日分の食費を覚悟しなければならなかったが、しかし、この3日間私を脅かしていた不安はすっかり取り除かれた。だから足取りも軽やかにタクシーに乗込んだのだった。
タクシーの窓から街のネオンを見つめながら、1時間近くも聞いていた女の話しをもう1度思い出していた。
女は27才の工場勤務、そして女と同棲していた男は36才の無職だった。
2人は1年前、仙台から東京へ駆け落ちしてきた。
男には妻子がおり、女にも夫とまだ産まれたばかりの乳飲み子がいた。
手を取るようにして東京に逃げて来た2人は、西日暮里の裏路地にある家賃8千円の古いアパートを借りた。そこで2人は、残して来た子供達への罪悪感に押し潰されながらも、隠れるようにひっそり暮らしていた。
女の仕事はすぐに見つかった。昼は近所の小さなスーパーでレジを打ち、夜は隅田川沿いにある小さな町工場で100円ライターを組み立てていた。
しかし男の仕事は見つからなかった。時々、臨時の交通整備の仕事が入ったが、すぐに仕事は途切れ、女のパート代をあてにしながら1人アパートに籠る生活が続いていた。
そのうち男は、朝早く出掛け夜中に帰って来る女に、「僕たちはいったい何の為に駆け落ちしたんだろう」と、迷いを口走るようになった。その頃女も、安いパート代で朝から晩まで働き詰めている毎日に、同じ事を思っていた。
しかし、男と女には愛があった。かけがえのないものを捨ててまでも手に入れた愛があった。2人は、女が夜勤から帰って来た朝方に、いつも愛を確かめ合っていた。小さな窓が明け方の青い光に染まる頃、2人は荒々しく抱き合いながら、何の為に駆け落ちしたのかを互いに教え合った。そのわずかな時だけが、全てを捨てて駆け落ちした2人を充実させてくれる時だった。
しかし、そんなある日、突然、男がトラックに轢かれて死んだ。
その夜、新宿で夜勤の交通整備の仕事をした男は、高田馬場の路上に踞りながら始発電車を待っていた。7時まで待てば会社のバスが西日暮里の駅まで送ってくれるのだが、しかし男は、女が夜勤から帰って来る時刻に合わせてアパートに戻りたかったのだ。
男は路上に踞りながら、いつしか寝てしまっていた。
そこに大きなトラックが猛スピードで走って来た。まさかこんな所に人が踞っているとは思ってもいない運転手は、そのまま男の横を猛スピードで横切った。
男の足がトラックの車輪に巻き込まれ、そのまま20メートル引きずられた。男は、顔も頭も腹も股間もトラックの下でぐちゃぐちゃに踏み潰されながら、原型も無く即死した。トラックは、工場から積み込んだ焼きたてのパンを一刻も早くコンビニに運ばなければならず、かなりのスピードを出していた。
男が死んだ事を女は知らなかった。
日雇いだった男は会社に住所も告げておらず、名前も偽名だった。
警察でも男の身元が分からなかった。唯一の手掛かりは携帯電話だったが、しかし携帯は太いタイヤに何度も踏み潰され、プラスチックの粉と化していた。
男は不明人の路上生活者として扱われ、5日後には無縁仏の墓地に葬られた。
女は男を待っていた。女は男を信じていた。男が自分を捨てて妻子のいる仙台に帰ってしまったとは思えなかったし、思いたくもなかった。
薄暗く湿ったアパートで、女はひたすら男を信じ、待ち続けていた。その間、女は何度も携帯に電話を掛けた。5分おきに電話を掛けまくっていた。しかし、何度電話を掛けても、電源が切れているというアナウンスが流れるばかりでコールすらしなかった。
2週間が過ぎた頃、女はようやく自分が捨てられたという事実を受け止めた。それは、今まで電源が切れていると伝えていたアナウンスが、『現在使われておりません』というアナウンスに変わったからだった。
女は絶望した。男には帰る場所があっても、自分には帰る場所はない。女はそれから毎晩、男の携帯に電話を掛け続けた。『お掛けになった電話番号は現在使われておりません』というアナウンスに向かって、どうして私を捨てたのかと延々と話し続けた。
しかし女は、ひょんな事から、男が交通事故で死んでいた事実を知った。
男が自分を捨てたのではない事を知った女は、少しばかり心が救われたが、しかし絶望には変わりなかった。
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