餓鬼1─ GAKI ─
2012/05/31 Thu 00:13
薄汚れた木製ドアの内側には、『明日死にますから』という、どうでもいい落書きがポツンと書かれていた。
ドアに身を屈ませていた正治が、「まだだ……」と背後のミツオに合図をすると、今か今かと出番を待ちわびていたミツオが正治の小さな尻をジッと見つめながら、一瞬、荒い鼻息を止めた。
二人が潜む公衆便所の個室には、ついさっきまで誰かが夏みかんを貪り食っていた形跡が残っていた。
恐らくホームレスか酔っぱらいの仕業であろう、便器の回りに散乱しているみかんの皮はキツいカンキツ臭を放ち、それが便器に蓄積されたアンモニア臭と混じっては、個室の中は奇妙な香りに溢れていた。
「だからよ、俺ぁアニキに言ってやったんだよ。暴排条例なんかにビビってるくれぇならよ、とっとと足洗ってタコ焼き屋のオヤジにでもなったらどうだってね」
ドアの向こう側からロレツの曲がっていない声が聞こえて来た。
小便器の前に立つ男は、首に挟んだ携帯電話にそう話し掛けながらズボンのジッパーをジジっと開けた。
「パクられるのビビってちゃヤクザなんてやってらんねぇよ、な、そうだろ兄弟……」
男のその言葉と同時に、便器に小便が打ち付けられるピシャピシャピシャ……っという音が響いた。
その音を確認した正治は、(今だ!)っと、後のミツオに合図をすると、そのまま音を立てずに個室のドアを開けた。
寒々としたコンクリート壁と、蛍光灯に群がる無数の夜蟲が頭上で狂喜乱舞していた。便器の中で男の小便に踊らされるカラフルな消臭ボールが、カラコロと木琴のような音を奏でていた。
息を止めた正治が男の背後に足を忍ばせた。携帯を首に挟みながら「うん、うん」と頷いている男の背中は壁のようにデカく、そして岩のように固そうだった。
そんな男の後ポケットには、黒光りする皮の財布が顔を出していた。
「今から出てこねぇか兄弟。一杯おごらせてくれよ」
その声と同時に正治の手が男の後ポケットの財布を摘んだ。それをサッ!と抜いた瞬間、男が「あっ?」と振り返った。夜だというのにサングラスを掛けている。
正治が素早く身を避けると、続いてミツオが男の背中に体当たりした。
男は「わっ!」と叫びながらよろめき、肩に挟んでいた携帯電話を落とした。無惨にもその携帯電話は小便器の中へと落ち、カラカラと音を立てて転がりながら、噴射したままの小便の洗礼を受けた。
「あああああああああっ!」
男が便器を覗き込みながら叫んだ。夜の公衆便所に言葉にならない男の叫び声が響く。
そんな叫び声を背後に、颯爽と公衆便所を飛び出して行った二つの小さな影。その足音は、野うさぎが砂利を蹴って掛けて抜けていくかのように、素早く夜の闇へと消えて行ったのだった。
「いってきまーす……」
誰彼と無くそう呟きながら哲雄が玄関を出ると、玄関先の犬小屋の横に濃紺の作業服を着た肉体労働者が踞っていた。髪は長時間海水に浸けられていたかのようにゴワゴワし、頬骨には地面に擦り付けたかのような擦り傷が痛々しく浮かんでいた。
ペペが尻尾を振りながら犬小屋の中から出て来た。全身にモクモクと毛玉を作る老犬ペペは、哲雄の顔を見るなりこれでもかというくらいに激しく尻尾を振り、同時に尻までクネクネと振っていた。
「ぺぺ……」
犬小屋の前にしゃがみながらペペの雑巾臭い体を撫でた。喜んだペペがワンっと鳴くと、男は瞼をピクンっとさせ、「ん?」と首を傾げながら目を開けた。無数の目脂と大量のヨダレが朝の光りに照らされドス黒く輝いていた。
「おお……哲雄か……」
頬のヨダレを作業服の袖で拭い取りながら男は酒臭い息を吐いた。
「父ちゃん、こんなとこで寝てたら死んじゃうぜ……」
ペペの喉をゴロゴロと撫でながらそう言うと、男は「ん……うん……」と気怠そうに何度も頷き、「よったらせっ」と、意味不明な掛け声を呟きながらゆっくりと腰を上げたのだった。
門の前をパタパタとスニーカーを鳴らしながら下級生たちが走り去って行った。四軒隣りのお寺の角のゴミ置場では、装甲車のように厳ついゴミ収集車がゴワンゴワンっと不気味な音を響かせている。
男は作業ズボンの尻をパタパタと払うと、自分の名前だけが消された玄関の表札を見上げた。
そんな男の全身には、その人種が持つ独特な饐えた匂いがムンムンと漂っていた。それはゴワンゴワンっと不気味な音を響かせながら次々にゴミを押し潰していくゴミ収集車と同じ匂いだと、哲雄はその骨と皮だけの首を見上げながらふと思った。
男は、表札の先頭で二本線が引かれている自分の名前を淋しそうに見つめながら、「学校行くのか?」と哲雄に聞いた。
「当たり前じゃん、小学生なんだもん」
哲雄が笑いながら腰を上げると、男はゆっくりと背伸びをしながら「じゃあ駅まで父ちゃんと一緒に行くかぁ」とあくび混じりにそう言い、哲雄の小さな肩に腕を回そうとした。
「やだよ、こんな汚ねぇオヤジと一緒なんて」
そう笑いながら身を躱し、「じゃあな」と門の外へと駆け出すと、男が「あ、哲雄!」と呼び止めた。
足を止めた瞬間、ランドセルにぶら下がっていた交通安全の御守りがチリリンっと鈴を鳴らした。その御守りは、この薄汚れた男がまだ薄汚れていない頃の、入学式の日の朝にランドセルに付けてくれたものだった。
振り向いた哲雄の顔をチラチラと見つめながら、男はガシガシと坊主頭を掻き毟った。そしてゆっくりと腰を屈めながら哲雄の顔を覗き込むと、「母ちゃんは?」と聞いた。
男の吐く息は、下水道のヘドロのような重たい匂いがした。
「帰って来たのが朝方だったからまだ寝てるよ」
一瞬、男の顔が曇った。
「朝方って……何時だよ……」
「知らねぇよ、自分で聞けばいいだろ」
そう吐き捨てながら再び駆け出した哲雄だったが、しかし走り出したとたん複雑な感情に襲われた。その感情は、車がびゅんびゅんと走り去って行く道路の真ん中で、内臓を破裂させたまま放置される轢き逃げされた野良猫の死骸を目撃した時のように、ジリジリと胸を押し潰してきた。
振り返ると、男は玄関の磨りガラスから恐る恐る家の中を覗いていた。
「父ちゃん」
哲雄のその声に男は慌てて振り向いた。男のその顔は老犬ペペよりも疲れ果てた表情をしていた。
「メシ、ちゃんと喰えよな……」
哲雄はポケットの中からしわくちゃの千円札を取り出すと、それを男の足下にカサッと投げ捨てた。
男がそれを拾う前に走り出した。拾う瞬間を見たくなかった。
ランドセルの横でチャリチャリと鳴っている鈴の音色が悲しかった。走りながらもう一度振り返ると、男が玄関の磨りガラスを覗いているのが見えた。既に男の足下に千円札はなかった。
『六年二組』と書かれた黒鉄の表札は、いつの時代に書かれたものなのか、白いペンキがほとんど剥げていた。
教室に入るなり、「哲雄!」という声が響いた。
騒つく朝の教室の奥で、机の上で胡座をかいていた正治が机の上からひょいと飛び降りた。
黒板の前の哲雄を見ながら意味ありげにニヤニヤと笑う正治は、哲雄に向かって人差し指をおいでおいでと動かすと、そのままミツオを従え教室を出て行った。
哲雄は窓際の自分の机にランドセルを置いた。おしゃべりしている女子達を、「ごめん」と掻き分けながら二人の後を追った。
廊下に出ると、既に正治達の姿は無かった。
しかし哲雄は慌てる風も無く、そのまま上履きのゴム底をキュッキュッと鳴らしながら廊下を歩き出した。
廊下の奥に『理科室』と書かれた黒鉄の表札がぶら下がっていた。
その表札をチラリと見つめ進んで行くと、いきなり右斜め下から大きな声が響いた。
「てっちゃん!」
そう叫びながら階段を駆け上って来たのは魚屋の倅、敏光だった。
敏光は戯れる子犬のように嬉しそうに走り寄ってきた。人懐っこい笑顔で「おはよっ」と笑う。
足を止めた哲雄が「おはよ」と笑いながら返事をすると、不意に敏光の髪やTシャツから腐ったアサリのような臭いがプンと漂って来た。
魚屋の店舗と住居が同じ敏光はいつも生臭かった。上履きの中も、ランドセルの中も、そして、なぜか筆箱の中までも生臭かった。
だから敏光はいつもクラスでは仲間はずれにされていた。臭い、汚い、をウリにした典型的なイジメられっ子だ。
そんな敏光と哲雄は、一年生の頃から同じクラスだった。
敏光のイジメが始まったのは、五年生の時にクラス替えがあってからだった。
敏光をイジメたのは新しいクラスメイト達だった。彼らは、それまで敏光が放つその生臭さに馴れていなかった為、クラス替えで始めて敏光のその猛烈な生臭さを嗅いだ瞬間から、まるで赤ん坊が新しい玩具を見つけた時のように敏光を弄り始めたのだった。
『臭い』というのは非常にわかりやすいイジメの理由だった。不潔が原因で臭いのならば直しようもあるが、しかし生まれた時からそのニオイの中で育ち、これからもそのニオイの中で生活して行かなければならない敏光には、それは防ぎようの無い理由だった。
臭い臭いと迫害される敏光は、今まで明るかった性格がとたんに暗くなった。言葉数も少なくなり、いつも一人でポツンといるようになった。
そんな敏光を哲雄は庇わなかった。庇えば哲雄も標的にされる恐れがあるからだ。
しかし、庇う事までは出来なかったが、敏光とは今まで通り友達として接するようにしていた。敏光が教室の隅で一人ポツンとしているといつも微笑みかけ、放課後はできるだけ敏光と一緒に帰るようにしていた。
それは、一年生の時から同じクラスメートでありながらも、イジメから助けだしてやれないという後ろめたさがあったからに過ぎず、決して友情や正義感などという優しさではなかった。
「今日、帰りにウチ寄ってく?」
本気で哲雄の事を親友だと思い込んでいる敏光は、嬉しそうに目をキラキラさせながらそう言った。
「……わかんない。でも、今日は無理かも知んない」
哲雄がそう答えると、敏光は「そっか……」と唇を尖らせながら暗く視線を落としたが、しかしすぐにまた目を輝かせると、嬉しそうに哲雄の顔を見ながら言った。
「あのね、昨日、すげぇうめぇアジの干物が入ったんだ。母ちゃんがてっちゃんに持ってってやれって言ったんだけどさ、でも学校に持って来ると臭いから……」
敏光は『臭い』という言葉を弱々しくさせながらへへへと笑うと、「だから俺、家で預かってるから」と得意気にそう言った。
「そうなんだ……」
哲雄は複雑に微笑んだ。
今までにも敏光は色々な魚を哲雄にくれたが、しかし哲雄はそれを一度も食べた事がない。それは、魚を家に持ち帰ると、いつも母親が「臭い!」と言って捨ててしまうからだ。
「ウチの父ちゃんが太鼓判押したアジの干物だから、すげぇうめぇよ!」
目を爛々と輝かせながらそう得意気に笑う敏光に、戸惑う哲雄はただひたすらに、「ありがとう」と笑うしかなかったのだった。
そんな敏光に「じゃあ」と笑いながら哲雄が歩き始めると、敏光は、全く喜ばない哲雄を不思議そうに見つめながら、「うん……」と小さく頷いた。
敏光はそう頷いたままその場に留まっていた。
哲雄は、敏光に見られているうちは理科室に入れないと思った。きっと敏光は理科室に付いて来るに違いないからだ。
哲雄はひとまず階段を降りる事にした。ゆっくりと階段を降り、中段の角を曲がろうとすると、背後から敏光の「すげぇうめぇから!」という念を押す声が聞こえてきたが、哲雄は聞こえないフリをしてそのまま階段を降りて行ったのだった。
階段下の手洗い場で意味もなく手を洗った哲雄は、しばらく階段を駆け上がっていく赤や黒のランドセルを見つめていた。
そろそろいいだろうと再び階段を上る。
三階の廊下に敏光の姿がないのを確認しながら廊下に出ると、そのまま理科室へと進んだ。廊下では数人の生徒達が戯れていたが、しかし哲雄を見ている者は誰もいなかった。
理科室のドアを開けるなり、生温かい消毒液のニオイに包まれた。黒い暗幕カーテンが引かれた理科室は薄暗く、そのカーテンの隙間から降り注ぐ朝の光りが、舞い上がる埃をキラキラと輝かせていた。
シンク付きの実験台の上で正治が笑っていた。
「哲雄が言った通りだったよ。あの公衆便所で張り込みしてたら、来たよ来たよカモが来たよ」
正治はくっくっくっと笑いを噛み締めながらそう言うと、理科室の奥でアルコールランプを弄っていたミツオが「すげぇんだぜ!」と鼻詰まりの声を上げながら飛び跳ねるようにやって来た。
哲雄が実験台の椅子に腰掛けると、すかさず正治が哲雄の目の前に黒皮の財布をパタッ!と叩き付けた。
「中、見てみろよ……ビビるなよ……」
正治は叫び出したいのを我慢するかのようにワクワクした表情で、黒皮の財布と哲雄を交互に見た。
それを手にした哲雄は、そのズッシリとした重さに、いきなり箒でうなじをくすぐられたようなゾクゾク感を感じた。二つ折りの財布をパサッと開くと、中には一万円札がぎっしりと詰まっていた。
「い、いくらあるんだ?……」
ゴクリと唾を飲み込みながら正治に聞くと、隣りでヘラヘラと笑うミツオが「いくらだと思う?当ててみて」と嬉しそうに哲雄の顔を覗き込んだ。
そんなミツオを無視するかのように哲雄の目をジッと見つめる正治は、静かに大きく息を吸い込むと、ニヤケる頬をピクピクとさせながらゆっくりと息を吐き、「三十万」と小さく呟いた。
「……マジかよ……」
哲雄が恐る恐る財布の中の札を摘まみ上げると、いきなり正治とミツオが「ぎゃははははは!」と笑い出した。
「やっぱり哲雄の言った通りだよ、バス停に突っ立ってる婆さんとか会社帰りのおっさんなんかより、夜の街でウロついている奴らの方が全然金持ってるよ!」
正治は嬉しそうにテーブルをバンバンと叩くと、その大きな目をギラギラさせながら言葉を続けた。
「それにあいつら、みんな酔っぱらってるだろ、あんなやつらなら、目隠ししてても簡単に引ったくれるぜ!」
正治はそう笑いながら哲雄の手から札を奪い取ると、それを一枚ずつテーブルの上に並べ始めた。
「一回で三十万なんて最高記録だよ……これからはあの街でバンバン稼ぎまくろうぜ……」
興奮冷めやらぬ正治は、顔をだらしなく綻ばせながら一万円札をテーブルの上にびっしりと並べた。
「でも、マズいぜ……」
哲雄が冷静な目をしてゆっくりと正治を見た。
「何がだよ……」
並べた一万円札を一枚取ろうとしたミツオの頭をペシンと叩きながら正治が聞く。
「こいつ、ヤクザだ……」
財布の中のカード入れの中から、同じ名刺を何枚も何枚も抜き取りながら哲雄が呟いた。その名刺には小学生でもわかるメジャーな組のマークが金色に輝いていた。
「ああ、あいつは見るからにヤー公だった」
平然とそう笑う正治は「やっぱりヤクザって金持ってんだな」と感心する。
二人の間に顔を突っ込んで来たミツオが、「俺なんてヤクザに体当たりしてやったんだぜ」と、だらしなく開けた唇を唾液で光らせながら自慢げに笑った。
正治はそんなミツオの坊主頭を再びペシンと叩きながら追いやると、妙に真面目な表情を作りながら哲雄に言った。
「俺、思ったんだけどさぁ、今度からヤクザばっかり狙うってのどうよ?……」
正治はそう呟くと、机の上にズラリと並べられていた一万円札を集め始めながら、「こんな大金見ちゃうと、もう、婆さんとか爺さんの小銭を引ったくるのがアホらしくなっちゃったぜ……」と独り言のように呟いた。
哲雄はそんな正治を見つめながら静かに言った。
「でも、捕まったら殺されるぜ」
正治は乱雑に束ねた一万円札を机の上でトントントンっと音立てながら揃えると、「……ああ。わかってる。だから、捕まらなきゃいいんだよ」と笑った。
そんな正治に哲雄が釣られてふっと笑うと、傍で妙に興奮していたミツオが、「ヤクザなんて俺がぶっ殺してやるよ」と、実験台の上に唾の泡を飛ばしたのだった。
(つづく)
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