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コブラ1




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 第三特別B病棟。
 この巨大精神病院で、病棟に「特別」が付けられているのは、この第三特別病棟だけだった。
 ここは特に症状の酷い患者や院内で事件や事故を起こした患者が閉鎖される、いわゆる保護房的な病棟だった。
 この第三特別病棟にはAとBがあった。「B」というのは女性患者を意味しており、「A」は男性を意味する。そう、僕が新しく配属されたこの第三特別B病棟は、精神病院の中でも特に問題のある女性患者ばかりを隔離した閉鎖病棟なのだった。

 先月からこの精神病院で働くようになった僕は市原壱男。看護士の資格を持つ28才。
 そんな僕は、過去に一般病院を三度も解雇されている。
 一般病院を解雇された原因は、三つの病院全て破廉恥行為だ。
 一度目の病院では看護婦のトイレを覗いている所を発見されその日のうちに追い出された。
 二度目の病院では患者の下着を洗濯機から盗み出したのを見つかり首になり、そして三度目の病院では、意識不明の少女の体を悪戯していたのが発覚し即刻病院を叩き出された。

 こんな僕を何の偏見もなく拾ってくれたのが、この情愛病院だった。
 この情愛病院という精神病院は何かと問題の多い病院だった。
 クスリ漬け、虐待、人体実験・・・・
 そんな噂が飛び交う病院だったが、しかし今の僕は病院を選んでいる立場ではなかった。
 いや、むしろ、こんな僕にとってはうってつけの病院だったかも知れない。


 第三特別B病棟へと案内される僕は、一般病棟と第三特別B病棟を繋ぐ真っ白な渡り廊下を歩きながら、特Bを受け持つ鏡嶋主任から説明を受けていた。
「キミは、月・水・金・日の週4日の夜勤をしてもらうだけだから、それほど難しく考えなくてもいいよ。要するに、守衛だよ。夜間の守衛さん」
 そう笑う鏡嶋主任は、薄汚れた白衣を風にタラタラと靡かせながら、気怠そうにスリッパをスタスタと鳴らしては先を急ぐ。

「夜になっちゃえばね、あいつらクスリが効いて寝ちゃってるから大人しいもんだよ。簡単簡単」

 鏡嶋主任はそう言いながら渡り廊下の突き当たりにある「関係者以外絶対立ち入り禁止」と書かれた鉄の扉に鍵を差し込んだ。
 ガタン!っという重苦しい鍵の音が響くと重圧な鉄の扉が開く。鏡嶋主任はそんな重圧な鉄扉を見つめながら、特Bの患者達がどれだけ叫んでも外に声が洩れないようになっているんだ、と自慢げに、ふふふふっと笑った。

 そんな鉄扉の先にはコンクリート剥き出しの階段が延々と地下に続いていた。
 その階段は、まるで地下のボイラー室へ繋がる階段のようで、とてもこの奥に病棟があるとは思えない、そんな薄ら淋しい階段だった。
「この階段を右に行くと男性患者の特Aね。うちの特Bは左の階段。みんなよく間違えるから間違えないようにね」
 鏡嶋主任はそう説明しながら、コンクリート剥き出しの階段をスタスタと降りて行ったのだった。

 階段を降りると、さっそく鉄格子のゲートが現れた。
 よく、精神病院というと刑務所のような鉄格子をイメージするものだが、しかしここの一般病棟には鉄格子などという物騒な物はなかった。かろうじて病室の窓に白い鉄柵が取付けられていたが、それはどこの家庭にもありそうな穏やかな鉄柵で、「鉄格子」などと呼ぶ程の大袈裟なものではなかった。
 しかし鉄格子はここにあった。
 やっぱり鉄格子はあったのだ。

 そのヤケに年期の入った不気味な鉄格子に、口笛を吹きながら鍵を押し込む鏡嶋主任にさっそく僕は尋ねてみた。
「これは脱走防止の為の鉄格子ですか?」
 すると鏡嶋主任はギャン・・・っと錆びた音を鳴らして鉄格子を開けながら、「そ。あいつらすぐに脱走しようとするからね」と呟き、そしてまたギャン・・・・っと鉄格子を閉めたのだった。

 鉄格子のゲートを抜けると、それまでコンクリートが剥き出しだった壁は白いペンキで塗られていた。
 突き当たりに小さな部屋があり、そこには「管理室」と書かれたプレートが掲げられていた。
 鉄格子のゲートから管理室へ向かう通路の間にもう一本の通路があった。その通路の右側にはズラリと鉄の扉が並び、そこが患者達を収容する房だということがわかった。

「前園君?」
 鏡嶋主任はそう言いながら、大きなアクリル窓のある管理室の扉を開けた。
 管理室の中は六畳ほどのスペースで、その中に簡易ベッドと事務机、そして事務机の前の壁にはズラリと監視モニターが並んでいた。
「前園君?」
 鏡嶋主任がもう一度そう言いながら部屋の中を覗く。部屋の中には食べかけのカップラーメンが湯気をあげているだけで、人の気配は感じなかった。
「あれ?どこ行ったのかなぁ前園君・・・・」
 鏡嶋主任がそう言いながら鉄扉がズラリと並ぶ通路へスタスタとスリッパを鳴らしガランとする通路に向かって叫んだ。
「前園くーん!」
 鏡嶋主任の声がその通路に響いた瞬間、その通路になんとも言えない不気味な声が一斉に鳴り響いた。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

「あぎゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃ!」

「ウホォォォォォォォォォォォ!」

 そしていくつかの鉄の扉がドシン!ドシン!と揺れ始め、どこからか食器を床に叩き付けるようなカンカンカン!という音が聞こえて来る。
 それはまるで飼育係がエサを持ってやってきた時の動物園のような騒がしさだった。

「あぁ、私の声に患者が反応してるだけだから、心配しなくていいよ」

 鏡嶋主任は、それらの叫び声に完全に度肝を抜かれてしまっていた僕にそう笑いかけながら、もう一度「前園くーん!」と大きな声で叫んだ。
 するといきなり8室並んでいる1番奥の部屋の鉄扉がスッと開いた。と同時に、喧噪の続く廊下にトタンのバケツを手にしたおっさんがヌッと出て来た。
「あぁ、前園君、ちょっと!」
 鏡嶋主任はそのおっさんにそう手を振りながら、そのまま管理室の中に入って行ったのだった。

 僕は、その60半ばだろうと思われる薄気味悪いおっさんにペコリと会釈をして、おっさんがこっちに来るのを待っていた。
 ゆっくりと通路を歩いて来るそのおっさんの作業ズボンはベタベタに濡れ、そしてなぜかズボンのチャックが全開になっていたのだった。


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 前園さんは無資格の看護者で、病棟の修繕や清掃、患者への配食から患者の洗濯までなんでもやってくれる、いわゆる用務員さんのような存在だった。

 先程僕は、前園さんを60半ばだと思ったが、しかし実際の年齢はまだ38才だった。
 それほどこの前園さんは老けており、その暗い表情にはまったくの覇気が見られず、まるでウツ病患者のようだった。

「八号室の患者が、また失禁しましてね・・・・」

 前園さんは、鏡嶋主任や僕から目を背けるようにそう呟くと、黄色い水がたっぷりと染み込んだ雑巾と、同じく黄色く湿っている下着らしきものが入ったトタンバケツをカタンっと床に置いた。
 そんな前園さんを見て、僕は一瞬「えっ?」っと思った。
 というのは、通常、女性の患者が失禁した場合、女性看護士がその処理をするのが普通なのである。
 僕は、「まさかこの人が・・・」っと思いながら、壁に設置されている監視モニターの「8」と書かれたモニターにふと目をやった。
 そこには、まだ30代と思われる髪の長い女が、ベッドに座ったまま壁をジッと見つめている姿が映っていた。
 仮に、患者が寝たきり老人というのならいざ知らず、しかしそのモニターに映る8号室の患者は30代の女性である。そんな女性の汚物処理を男性職員がするなど、一般の病院では考えられない事だ。
 しかも下着まで・・・・・
 しかし、鏡嶋主任はそんな前園さんに向かって、平然とした表情で「暴れたの?」っと、前園さんのベタベタに濡れた作業ズボンを指差しながら聞いた。

「えぇ・・・少しだけ・・・・」

 前園さんは、作業ズボンに付いている女性患者の小便と思われるシミをガサガサと手で拭きながらそう答え、そこで初めて自分のズボンのチャックが開いている事に気付き、慌ててチャックを閉めていた。
 鏡嶋主任はそんな前園さんに平然と「ふ~ん」と頷くと、そのまま僕を紹介した。

「今度、松川君の代りに特Bの夜勤をやってもらう事になった市原君」

 僕が「よろしくお願いします」と挨拶をすると、前園さんは僕の目を見ないまま黙ってペコッと頭を下げた。
「まぁ、彼は私よりもこの特Bは古いからね。何かわからない事があれば前園君に聞けばいいよ」
 鏡嶋主任はそう笑うと、前園さんを覗き込み「ねっ」と戯けるが、しかし前園さんはピクリとも笑わなかった。
「キミが当直以外の日は、前園君が当直に入ってくれているんだ。だから、まぁ、患者の情報交換なんかしながらさ、2人で仲良く協力し合って、事故が起きないようによろしく頼みますよ」
 鏡嶋主任は、黙りこくったままの前園さんの肩をポンポンと叩きながらそう言うと、そのままニヤニヤと笑いながら管理室を出て行った。

 そんな鏡嶋主任が鉄格子のゲートを潜って行くのを上目遣いでジッと見つめていた前園さんは、鏡嶋主任の姿が通路から消えるなり「死ね・・・」っと小さな声で呟いたのを、僕は聞き逃さなかった。


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 管理室に2人きりになると、いきなり前園さんが僕を見てニヤッと笑った。
 そして、鏡嶋主任が出て行った方をチラッと見ながら「あいつ、タヌキ野郎だから気を付けた方がいいですよ」と、虫歯だらけの前歯をムキ出してひひひひっと笑った。

 僕はそんな不気味な笑顔を見せる前園さんをどこかの海賊みたいだと思いながらも、どうして鏡嶋主任がタヌキ野郎なのかと気になったが、しかし、就任当日から主任の悪口を言うのもあまり気が進まず、僕はそれには取りあえず笑って答えておいたのだった。

 さっそく前園さんが病棟を案内してくれる事になった。
 前園さんは、「その前に、ちょっと・・・」と言いながら管理室の隣にある浴室の脱衣場に入ると、トタンバケツに入っていた汚物をそのまま洗濯機の中にバシャっと投げ入れながら「汚ねぇなぁ、ったくぅ」と舌打ちをした。

「患者の洗濯も前園さんがやるんですか?」
 僕は病棟の廊下を進みながら前園さんに聞いた。
「そうです。ここの患者は糞をちびったりしますからね、本棟では受け付けてくれないんですよ・・・」
 前園さんはひひひひっと笑いながらそう答え、「一号室」と鉄の扉の前で足を止めたのだった。

 管理人室の正面にある一号室には患者はいなかった。
 この部屋の扉は、全面に鉄格子が張り巡らされ、その隙間に透明のアクリル板がガッシリと嵌め込まれていた。他の部屋の扉は、鉄の扉の上半分が透明のアクリル板となっているのに対し、この扉だけは全面が透明アクリルになっており居室の中は隅々まで丸見えだった。

 そこには患者のプライバシーもへったくれもない。
 僕はそんなアクリルの扉に恐る恐る触れながら、先程、扉がガンガンと揺れていたのを思い出した。
「あぁ、大丈夫ですよ、それ強化アクリルですから。動物園のゴリラの檻と同じ物使ってますからね、どれだけ体当たりしても絶対に割れませんから」
 前園さんは心配そうな僕の顔を見ながらそう笑うと、ガチャガチャと音を響かせながら一号室の扉の鍵を開けたのだった。

「この一号室は、保護房と呼ばれる部屋です。特に興奮している患者や、暴れる患者なんかをぶち込んでおく部屋です。だから私物は一切ないし、管理室からも監視できるようになってます」
 前園さんは、クッションが張られた壁を指で押しながらそう説明した。
 4畳半のこの部屋は、確かに何もないただの箱だった。
 窓ひとつない壁には追突防止の為のクッションが張り巡らされ、床には真っ黒に汚れたスノコが置いてあった。
「ここは、暴れる患者の他に、新入も入る事になってます。本棟から特Bに連行されてきた患者はまずこの部屋に隔離され一週間監視されます」
 前園さんはそう説明しながら、ふいにびっくりするほど高い天井の隅を指差し、僕の耳元に顔を近づけては妙に小声でこう言った。
「この部屋だけ、本棟の監視カメラが付いてるんです・・・・」
 前園さんが指を差した天井の隅には、丸い形をした監視カメラが設置されており、数秒ごとに赤い点滅ランプを光らせていた。

「この部屋には水道やトイレはないんですか?」
 僕は、首吊り防止の為に、異様に高くなっている天井を見つめながら前園さんに聞いた。
「水道はありません。ここに入る奴らは水道の水を出しっぱなしにしたりしますからね。患者が水が欲しい時はこのボタンを押すんです。すると・・・・」
 前園さんはそう言いながら入口にある赤いボタンした。
「ほら、管理室のライトが点滅するでしょ、これで職員を呼ぶわけですよ。そうしたら我々がコップに水を汲んで、ここの穴から渡してやるんですね・・・・」
 前園さんはそう言いながら、ドアの横の壁に開いている穴に手を入れ、廊下に飛び出した自分の手をパタパタと振って見せた。
「トイレは?」
 僕は部屋を見回しながら聞いた。
「トイレもありません。だから、トイレの時も水が欲しい時と同じですよ、患者が大小便をしたくなったらこのボタンをポチッと押すんです。すると管理室が点滅しますから、我々が汚物缶を持って来て、この穴から渡してやればいいんです。患者の汚物はそのまま管理室のトイレに捨てて下さい。ただ、患者によっては検査の関係などで捨てちゃダメな場合もありますからね、まぁ、そこは事前に担当医から説明があると思いますけど・・・」
 前園さんはそう言いながら一号室から出た。
 前園さんの後に続く僕は、この保護房にソッと振り向きながら、その部屋がナチスのアレよりも酷いと思いながら、密かに背筋をゾッとさせたのだった。

 そのまま隣の二号室のドアの前に立った。
 その部屋にも患者はいなかった。隣の保護房の全面アクリル扉とは違い、この部屋の扉は上半分だけが透明アクリル板で後は頑丈な鉄扉だった。保護房の扉よりは多少なりともプライバシーは守られているようだが、しかし、どっちにしろ廊下から部屋の中は丸見えだった。
 そんな強化アクリル付きの鉄扉を開けて中に入ると、隣の一号室よりは人間らしい雰囲気が漂っていた。

「ここは一般房です。隣の保護房以外は、全部同じです」

 前園さんはそう言いながら、「本棟の監視カメラもありませんから」と、ポツリと呟いた。

 その部屋の壁は、コンクリートの壁に真っ白なペンキが塗られ、所々には茶色い模様が施されていた。
 六畳の部屋には、壁に取付けられた戸棚とマットのない骨組みだけの簡易ベッドが置いてあるだけで、テレビや冷蔵庫といった物は一切見当たらなかった。
 そしてやっぱり窓はなかった。しかし異常に天井が高い為かそれほど圧迫感は感じられなかった。
 そんな天井の隅に、隣りと同じ丸い監視カメラが赤い点滅を繰り返していたが、それは本棟には繋がっておらず、ここの管理室専用のカメラだと前園さんは嬉しそうに説明した。
 トイレは、部屋の奥の床にポッカリと開いている穴だった。
 便器のない、床にポッカリと開いたただの四角い穴。そこには隠す仕切りは何もなく、患者は尻を剥き出しにしたままその穴にしゃがまなければならなかった。しかも廊下から居室の中は丸見えなのである。
 そんなトイレの穴を僕がジッと見つめていると、いきなり前園さんがぎひひひひひっと下品な笑い声を上げた。
「市原さん、今、想像してたでしょ?」
「えっ?・・・な、何をです?」
「ふふふふ、患者が糞を垂れるシーンを・・・・」
「・・・・・・・」
 モジモジする僕を見て、前園さんは再び下品に笑った。
「でもね、ほとんどの患者はこの穴を使わないんですよ・・・・」
「・・・っといいますと?」
「えぇ、ここの特B患者は特にイカれたヤツばかりですからね、こんな穴を使わずにそこらじゅうでブチブチブチってね・・・・」
「ブチブチ!・・・・・」
 僕は、ふと壁に描かれた茶色い模様に目をやった。
「そう、それも糞です。あいつらテメェーの糞を壁に塗り込んだりしてウンコアート作ったりしますからね・・・」
 それを聞いた僕が、「うわっ」と慌ててその茶色い模様の壁から飛び退くと、前園さんはうひひひひひっと虫歯をムキ出して笑いながら二号室を後にしたのだった。

(つづく)

《目次に戻る》 《第2話へ続く》



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