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えんとつ8

2012/05/30 Wed 23:04

タイトル8



―8―

 午後七時だというのに大黒乃湯は閑散としていた。
 松沢が子供の頃は、この時間の銭湯といえばどこの銭湯も芋洗い状態だった。
 脱衣場を小さな子供達が走り回り、浴槽を占領する中高生のガキ共がチンコの見せ合いをしては盛上がっていた。
 親父達といえば、フルチンのまま将棋を指したり、プロ野球のナイター中継に大声を出したり、はたまた酔っぱらって寝てしまったりと、銭湯の脱衣場をひとつの社交場にしていた。
 だから九時を過ぎてからの浴槽には、粉チーズを湯に浮かべたような大量の垢がプカプカと浮かび、浴槽の縁にはあらゆる体毛がうねうねと漂流し、そして酷い時には、赤ちゃんの物と思われる小さなウンチが浴槽の隅に浮いていた。
 そのくらい、あの時代の銭湯というのは賑やかで、毎晩のようにお祭り騒ぎだったのだ。

 しかし、現代の大黒乃湯は違った。
 ステテコ姿の爺様がマッサージ機の上で寝息をたて、全身シミだらけの老人が天井でぐるぐる回る大きな扇風機に向かってタバコの煙を吐き、そして全裸で床にペタリと座った老人がパチパチと音を立てて足の爪を切っていた。
 静まり返ったその脱衣場には走り回る子供の姿もなければ、やたらと股間を隠したがる中高生もいなかった。
 そこはまるで老人ホームそのものだった。
 そんな閑散とした脱衣場を横目に,松沢は番台に五百円玉をピシャリと置いた。
 番台のコソ泥は相変わらず客の顔も見ようとせず、テレビのナイター中継を見つめたまま「毎度」と呟いていた。
 番台の足下に隠してある木箱の中をジャラジャラさせながら、お釣りの五十円玉を探し出したコソ泥に松沢は聞いた。

「どうですか? その後の埋蔵金調査は」

 するとコソ泥は、そこで初めて老眼を斜めにしながら松沢を見つめ、「ああ、あんたか」と嬉しそうに笑った。
 コソ泥は五十円玉を摘まみ上げると、それを番台のカウンターにピシャリと置き団子のような丸い鼻を膨らませた。

「さすがフランスの先生だよ、遂にマチコさんを見つけ出してしまったよ」

「えっ?」と思わず聞き直した。松沢の中での『マチコ』は、フリーメーソンの秘密の如く『あの町この町』に隠された架空の人物だったからだ。

(もし本当にその人物が存在するとしたら、自分の出る幕はもうない……)

 松沢は動揺を悟られないように、「それは凄いですね……」と言いながらコソ泥からソッと目を反らした。ふと番台の中に、封が開いたままの『かっぱえびせん』があるのが見えた。

「フランスはさすがだね。宝探しさせりゃ右に出るものはいないよ。キミは『冒険者たち』って映画観た事あるかなぁ、古いフランス映画なんだけどさぁ、アラン・ドロンが海底に眠る財宝を引き上げるっていう冒険映画なんだ。いいよ、凄くイイ映画だったよ。うん。さすがフランスだ」

 そう得意気に話すコソ泥は、古い映画の主人公とフランスの考古学者がごっちゃ混ぜになっているようだった。
 アラン・ドロンの話しを延々と語り続けた。
 この爺さんもそろそろボケて来てるな。
 そう思いながら松沢は「それより」と、コソ泥が語るアラン・ドロン評価の腰を折ると、「そのマチコさんってのは、いったい誰だったんですか?」と核心を突いた。

 コソ泥は、唇の端に溜った白い泡を指で拭き取りながら、番台からググッと身を乗り出した。
 そして松沢の目をジッと見つめると、「いやいやキミ、それは極秘のトップシークレットだから」と言いながらも、「絶対に誰にも言わない?」と囁いた。

「絶対に誰にも言わない」

「マスコミとかにも絶対に言わない?」

「はい。絶対に言わない」

「じゃあ絶対に約束だよ」

「はい。絶対に約束します」

 松沢が深く頷くと、コソ泥は番台の足下に隠していたかっぱえびせんをひとつ摘み出し、それをポリポリと齧りながら声を潜めた。

「マチコさんは新潟に居たんだよ。阿野真智子、今年六五才になる婆さんだ……」

 そうニヤリと笑いながら、またひとつかっぱえびせんを摘んだ。

「つまり、『あの、マチコの町』ってのは阿野真智子が住んでいる新潟のとある町の事だったんだよ」

「しかし、その、阿野真智子という人と大黒乃湯を結びつける接点はあるんですか?」

「あるね。実は大ありだったんだよ」

 コソ泥は今度はかっぱえびせんをゴソッと鷲掴みしながらギラリと目を輝かせた。

「どうやら彼女は先代の隠し子だったみたいなんだよ。つまりワシの腹違いの妹って事だな。それにしても、今まで何十年も隠し通されて来たその秘密を、先生はよく見つけ出せたもんだよ。さすがだねフランス人は」

 コソ泥は鷲掴みしたかっぱえびせんをガボッと口の中に押し込んだ。それをガリガリバリボリと破壊的に噛み砕くコソ泥の目は、もはや六億円を手にしたも同然、といったパワー溢れる目力が宿っていた。
 松沢は、そんなコソ泥の目を見つめながら、脇の下から粒のような汗がツツツーッと横腹に流れていく不快感に眉を顰めた。せっかく『あの町この町』の歌と、えんとつの先の『とんがり帽子』が解明で来たのに、と、ショックを隠しきれなかった。

「そのフランスの先生は、どうやってそれを見つけ出したんでしょうか……」

 松沢は絶望に打ちひしがれながらも、参考の為に聞いておきたかった。

「フランスの先生はね、まず日本全国の銭湯をしらみつぶしに調べ上げたんだな。そりゃあ江戸時代に遡って『湯屋』まで調べるってんだから徹底してるよ。やる事がそこらのインチキ冒険家とは違うね。で、その時に先生はある銭湯に目を付けたんだな。そりゃあ先生はフランス人のくせに源氏物語を読むってくらい日本語に精通している人だから、銭湯の名前に使われる漢字くらい朝飯前だ、ワシら日本人よりも難しい漢字を知ってるよ。そんな先生が目を付けた銭湯の名前ってのがね、ふふふふふ、聞いて驚くなよ、なんとその銭湯は『大白乃湯』という名前だったんだ」

 コソ泥は、まるで無声映画の活動弁士のように番台のカウンターをバン!っと叩いた。その音に連鎖するように、脱衣場の真ん中で爪を切っていた老人がパフっと放屁した。
 大黒乃湯と大白乃湯。あまりにも出来過ぎていると松沢は思った。もしかしたら、この話しは全てこのボケ老人の創作話なのではないだろうかとふと思った。

「で、先生達はその『大白乃湯』を徹底的に調べたんだな。すると、そこに阿野真智子の名前が出て来た。阿野真智子ってのはその銭湯の一人娘で、いわゆる銭湯の看板娘ってヤツだったらしいね。『大白乃湯』が閉店する昭和六十年まで番台に座ってたらしいよ。うん。で、更にその阿野真智子をあれこれと探って行くってぇと、とんでもねぇ事実が判明したんだよ……」

 コソ泥は番台の下からかっぱえびせんの袋を取り出すと、まるでペットボトルのジュースを飲むかのように袋を口にあて、そのままかっぱえびせんのカスをザラザラザラっと口内に流し込んだ。
 コソ泥がガリガリと咀嚼する度に、かっぱえびせんのニオイがプ~ンっと漂って来た。その香りは、昔新宿のマンションで飼っていた熱帯魚の餌のニオイによく似ていると思った。

「阿野真智子って女はね。なんと、先代の隠し子だったんだ……」

 クライマックスを語るコソ泥は妙に自慢げだった。
 松沢はそんなコソ泥の唇の端に付いたかっぱえびせんの塩カスを見つめながら、それさっきも言ったじゃねぇか、とソッとツッコミを入れた。

「ふふふふ。親父も大したもんだよな、新潟くんだりで妾に銭湯を経営させてたんだからね。しかも銭湯の名前が本家と色違いの『白』にしたとこなんざぁ、さすが江戸っ子だね。粋だよ」

 それのどこが『粋』なんだよ、と思いながら、松沢は絶望するように項垂れながら呟いた。

「……って事は、やっぱりその銭湯の煙突にも『とんがり帽子』があったんですね……」

「んっ? あんた若いのに、煙突の『とんがり帽子』なんて言葉をよく知ってるね」

「ええ、まぁ……」

 そう呟きながらソッと顔をあげると、コソ泥が眉間にシワを寄せながら松沢をジッと見つめていた。その顔は、明らかに松沢に疑心を抱いたそんな表情だった。

「あんたまさか、埋蔵金を探してるんじゃないだろうねぇ……」

「そんな……」と慌てて首を振るが、しかし松沢を見つめるコソ泥の眉間からは疑心のシワが消える事は無かった。

 そんなコソ泥の様子から、やはりここの銭湯の煙突にあった『とんがり帽子』は埋蔵金と深い関係があると思った。その為に、コソ泥は先代が死んだ直後に、煙突の『とんがり帽子』を撤去し、それを念入りに調べたのであろう。
 松沢はそう確信しながらも、自分が埋蔵金探しをしている事を悟られないように、わざとらしく「大黒と大白とは先代も考えましたね」と話し掛けたが、しかし、コソ泥はそれっきり松沢に何も話さなくなった。

 コソ泥は、番台の前に立ちすくんだままの松沢を完全に無視しながら、「火事場泥棒ってのはこの世の中で一番許せねぇ野郎だよ。オレオレ詐欺よりタチが悪りぃよ」などとブツブツ独り言を言いながら、女湯と男湯の仕切り壁の上に置いてあるテレビをムスッと見つめていた。
 そんなコソ泥からこれ以上の情報収集は無理だと諦めた松沢は、ブツブツ言いながらナイター中継を見るコソ泥に向かって(カツラ野郎が)っと心の中で吐き捨てると、そのまま脱衣場のロッカーへと向かったのだった。

 浴場へ行くと、そこも脱衣場同様、閉店しているかのように閑散としていた。
 昔なら、大勢の中高生が縁に座りながらわいわいと騒いでいた浴槽も、今はただひたすらにトポトポと湯が流れる音が響き、まるで静かな温泉宿の大浴場のような佇まいを見せていた。

 そんな浴場には三人の客がいた。
 浅湯の浴槽では、アメリカ人と思われる金髪の若者が浴槽の縁に腰掛けながら、浅湯に寝転がるようにして湯に浸かっている日本人青年に、カタコトの日本語で必死に何かを尋ねていた。
 洗い場の隅では骨と皮だけの老人が、年期の入った軽石で足の裏をセッセと擦っている。
 松沢はそんな客達を一瞥すると、シャワーの横で山のように積み重ねられている『ケロリン』の黄色い桶をソッと手にした。

(せっかく『とんがり帽子』を発見したというのに、まさかそれが新潟の銭湯だったとは……)

 そう項垂れながら、濡れたタイルにペタペタと足音を立てて深湯へと進むと、隣りの浅湯で寝転がるように湯に浸かっていた青年が和夫である事に気付いた。

 和夫は松沢に気付くなり「あっ」と小さく叫んだ。こいつはいつも出会う度に驚くヤツだなと松沢は思いながら、和夫に「ようっ」と声を掛けた。
 深湯から掬い上げた湯を身体にザバザバと打っ掛けると、そのまま銭湯ルールに従って薬湯へと向かった。
 薬湯の浴槽の壁には『今日はみかんの湯』とプレートが掲げられていた。
 大してみかんの香りなどしない、ただ黄色いだけの湯にゆっくりと浸かると、不意に浅湯からアメリカ人と会話する和夫の声が聞こえて来た。

「へ~……キミは外国語が話せるのかい」

 松沢は隣りの浅湯にそう声を掛けながら、おもわず口から出かかった「生活保護を詐欺るニートのくせに」という言葉を慌てて呑み込んだ。

「ええ。カタコト程度なら……」

 和夫がそう答えると、アメリカ青年が「ボクハ、ジョン、デス、カズオ、トモダチ」と松沢に向かって深々とお辞儀をした。
 すぐに和夫が「友達と言うか、今、ここで会ったばかりなんだけど」と、照れくさそうに笑った。
 松沢は、そんな二人に「ああそうかいそりぁ良かったぁ」と呟きながら肩まで湯に浸かると、深い唸りをあげた。

 高い天井を見上げた。
 吹き抜けになったその高い天井の隅に、ふとツバメの巣の跡が二つあるのに気付いた。
 その巣はそれは随分と古いものらしく、今までそれに気付かなかった松沢は、おもわず「ツバメなんてどこから入って来たんだ?」と口に出して呟いてしまった。

 すると、洗い場の隅から足の裏を擦っていた老人が「あのツバメの巣は、まだワシが生まれる前からあったもんだよ」と声を掛けて来た。

「関東大震災の時、一時ここが閉店してた事があるんだがね、そん時にあの小窓が割れて、そこからツバメが入って来たんだと、ワシがまだ子供の頃、親父から教えて貰った事があるよ……」

 老人はそう言いながら、昔を思い出すように天井のツバメの巣を見つめた。同時に、松沢も和夫もそしてアメリカ青年も一緒になって天井を見上げた。

「そうだ、あのお爺さんに聞いて見たらいいよ。お爺さんならきっとこの絵の事を知ってるはずだよ」

 突然、浅湯からムクリと起き上がった和夫がジェスチャーを加えながらアメリカ青年に言った。
 すかさず「なんだい」と身を乗り出した老人は、老いた自分の存在がこの若者たちに求められている事に喜びを感じているようだった。

「アレです。あの時計台です」

 和夫が指を差したのは、深湯の後の壁に描かれたタイル絵だった。
 そのタイル絵は、松沢が子供の頃から変わらぬ時計台の絵だった。この辺の銭湯のタイル絵といえば、ほとんどが富士山や紅色の桜といった定番のタイル絵が多いが、しかし大黒乃湯は違った。緑の芝生が一面に描かれ、そこにドーンと聳える洋風の時計台。その時計台の下には親子の鹿が草を食べているシーンが描かれていたのだ。

「ああ、あれはオルゴール時計だよ」

 老人はそう言いながら、和夫達のいる浅湯に体勢を向けた。
 松沢は、ふと、タイルの床に直に座っていた老人の股間が気になった。子供の頃、銭湯へ行こうとすると、必ずお袋から「風呂屋の床に座るとチンチンにバイキンが入るからね」と言われていた。その度に、それはいったいどんなバイキンで、どうやってチンチンから入って来るのだろうかと脅えていた松沢は、銭湯では必ず椅子を使うようにしていた。
 が、しかし、松沢の親父は絶対に椅子を使わなかった。近所の親父達と同様、タイル床にベタリと腰を下ろしながら昨夜の巨人阪神戦について激論していたものだった。

「彼の住んでる町にもこの時計台によく似た時計台があるって言うんです。だから、あの時計台に行きたいからどこにあるのか教えてくれって言うんですけど……」

 和夫がアメリカ青年と老人を交互に見つめながらそう話すと、老人は突然へへへへへっと笑いながらカポカポの入歯を直した。
 そして壁のタイル絵を見上げながら「ありゃ、もうねぇよ」と呟いた。

「昔、すぐそこの大通りの角に松栄時計店ってでっけぇ時計屋があったんだよ。ほら、今、トヨタのレンタカー屋やってるとこだよ。その時計屋の親父がこの町の町会議員をやってたんだけど、その親父が何かこの町のシンボルを作ろうって言い出してね、それで全財産を投げ打ってあの時計台を作ったんだよ……」

 老人は浅湯にソッと手を差し込むと、手の平に掬った湯を痩せこけた肩にぴしゃぴしゃと掛けた。そして、浅湯に浸かる和夫に、手の平を縦にしながら「ごめんよ」と呟くと、そのまま浅湯の中に年老いた身を沈めた。

「ソノ、トケイハ、ドコ?」

 多少の日本語は聞き取れるのか、アメリカ青年がそう言いながら、老人と和夫の顔を交互に見た。

 浅湯に肩まで浸かった老人は、「むふぅぅぅぅぅ」とひとつ唸ると、静かに目を綴じながら「だから、ありゃ、もうねぇよ。東京大空襲の時に焼けちまった。おめぇらの国のB29がやってきて全部ぶっ壊しちまったよ」と、淋しそうに呟いた。
 
 アメリカ青年は、肩を窄めながら、「オウッ……」と首を振って嘆いた。
 すると、湯に浸かっていた老人が、突然、「ちっ」と舌打ちをした。そしてバシャっ! と湯しぶきを上げながら立ち上がると、壁からニョキッと出ていた鉄パイプの管にいきなり顔を近づけた。

「こら! タツ! ぬるいぞ!」

 老人のそんな怒声が浴場にわんわんと響き渡ると、すかさず女湯からも「タッちゃん! こっちもぬるいわよ!」という老婆の声が谺した。
 とたんにアメリカ青年が「ゴメナサイ!」と謝った。
 六十年もの前に母国が犯した過ちを、この下町の銭湯で謝罪する全裸のアメリカ人は、見ていてとても滑稽だった。

 そんなアメリカ青年に「あーいやいや違うよ、キミに怒鳴ったんじゃねぇ、焚き場のタツに怒鳴ったんだよ」と、目を細めてはケラケラと笑う老人は、怖がるといけねぇから早くそれを通訳しろと和夫を急かしていた。
 和夫がそれを通訳すると、ゆっくりと立ち上がったアメリカ青年は、胸に手をあてながらホっと微笑み、そしてなぜか「アリガトウ」と呟いたのだった。

 薬湯に浸かる松沢の位置から、立ち上がったアメリカ青年の股間のタオルの隙間の中がチラチラと見えた。
 そこにぶら下がるソレは、異様に大きくて異様に白かった。まるで白ナマズのようだと思いながら、松沢は、『みかんの湯』の中でプラプラと靡いている自分のモノを見た。
 それはまさにオタマジャクシのようだった。
 自分のソレとアメリカ青年のソレを見比べながらフンっと鼻で笑った松沢は、こりゃあ戦争に負けて当然だ、とつくづくそう思ったのだった。

 突然、尻の下からゴォォォォォォっという音が響いて来た。ハッパをかけられた焚き場のタツが、きっとヤケクソになりながら釜に薪を次々と放り込んでいるのだろう。

「でも、あの時計台はどうして『オルゴール時計』と呼ぶんですか?」

 和夫はゆっくりと浅湯から身を乗り出しながらそう聞いた。
 すると老人は、浅湯から深湯へとゆっくり移動しながら、口をモゴモゴと動かした。

「ワシらが子供の頃にゃ、夕方になると、町のみんなに時刻を知らせる為にあの時計台から音楽が流れてたんだよ。だからこの町ではあの時計台の事を『オルゴール時計』って呼んでたんだ……」

 老人は深湯に肩まで浸かると、綺麗に畳んだタオルを頭の上に乗せた。そして壁に凭れながらソッと目を閉じると、昔を懐かしむように「♪フフフン、フフフン、フフフフフン♪」とメロディーを口ずさみ始めた。

「その歌が夕方になるとこの町に流れたんですね」

 和夫がそう言いながら老人を優しい目で見つめると、老人は「そうさ」と言いながら天井を見上げた。

「冬の時期は夕方六時になると『赤とんぼ』が流れてた。夏の時期は五時になると『あの町この町』が流れてたなぁ……」

 薬湯にアゴまで浸かりながら、老人のその言葉に耳を傾けていた松沢は、唇まで達していた『みかん湯』をおもわずゴクリと飲み込んでしまった。
 生温かい『みかん湯』が、食道を通って胃袋に流れ込んで行くのがわかった。他人の汗と垢が溶け込んだ銭湯の湯には、いったいどんなバイキンが潜んでいるんだろうとふと思いながらも、冷静に冷静に老人の言葉をもう一度思い出していた。

(夕方五時……五時の『あの町この町』と言えば、長屋の下島のお婆ちゃんと同じだ……そうか、わかったぞ。お婆ちゃんはオルゴール時計から聞こえていた『あの町この町』を懐かしんで、夏の五時になるとああやって唄ってたんだな……)

 松沢は、黄色い湯船をジッと見つめながら、

『夏』
『オルゴール時計』
『五時』
『あの町この町』
『煙突のとんがり帽子』

 という言葉を必死に繋ぎ合わせていた。
 が、しかし、何も浮かんで来なかった。それらの言葉をあらゆる形でどれだけ繋げてみても、何も見えては来ないのだった。

(くそっ……せっかくここまで辿り着けたというのに……)

 松沢が薬湯の中でそうもがき苦しんでいると、浅湯の和夫が、深湯の老人を見つめながら「時計台が時を知らせてくれるって、なんだかいいなぁ」と、メルヘンチックに頷いた。
 老人は額に垂れて来た汗を、頭の上に乗せたタオルで素早く拭き取りながら、そんな和夫を見てうんうんと頷いた。

「子供達はね、時計台から音楽が鳴り出すってぇと、早く帰らなきゃお袋に叱られるってんで、蜘蛛の子を散らすように慌ててウチに帰ったもんだよ。だから子供達にとったら、あのオルゴールはあんまりいいもんじゃなかったな……空き地で野球やってても、みんなその時間が近付いて来ると、『まだ鳴るな、まだ鳴るな』って祈りながら野球やってたもんだよ。自分がバッターボックスに立った時なんて大変だよ。ホームランを打った瞬間に鳴り出すんじゃないかってドキドキしてさ、だからみんな、煙突のとんがり帽子の影ばかり気にしてんだよ」

 その言葉に、バシャ! っと激しい湯飛沫を上げながら松沢が立ち上がった。
 鬼のような形相で仁王立ちする松沢に、全員が驚きながら目を見開く。
「爺さん!」と深湯に向かって叫ぶと、老人はオロオロになりながら「な、な、なんでぇ!」と叫び、すかさずカポッと入歯を外した。

「どうして子供達は煙突のとんがり帽子の影ばかりを見てたんだ!」

 オタマジャクシのようなソレをプラプラさせながら松沢が聞くと、老人は大きな溜息をつきながら素早く入歯を戻し、「そんな事で大声出すんじゃねぇよ、びっくりするじゃねぇか」と呟きながら浴槽の中で立ち上がった。

「ワシらが子供の頃はな、この辺にゃビルなんて無かったから、空き地で遊ぶワシらは、煙突の影を『日時計』の代わりにしてたんだよ……」

 老人はそう言いながら両手で湯を掬い、それを浴槽の縁にビシャビシャと掛けるとそこにゆっくりと腰掛けた。

「今、この銭湯の裏手に大きなマンションがあるだろ。ほら、あの監獄みてぇなマンションだよ。昔は、あの土地に空襲ん時の不発弾が埋まってるって言われててなぁ、だからあそこは大きな空き地のまま放置されてたんだよ。もちろん立入禁止だった。だけど、ガキの頃のワシ達は不発弾なんてへっちゃらで金網乗り越えてたよ。あたりめぇさ、ワシらにとっちゃ今まで空からガンガンと降って来てた焼夷弾だ、今更地中に埋まってる焼夷弾なんて何にも怖かねぇさ。そうだろ?」

 老人がそう笑うと、和夫だけが困った表情で笑い返した。

「だからあそこは『爆弾広場』って呼ばれてたんだ。昼間はワシら子供達が野球や鬼ごっこをして、夜になると町に繰り出していた乞食達がそこに帰って来ては宴会開いてた……。とにかく広い空き地だったね。その空き地の真ん中に煙突の影がグッと一本走ってた。昔は、ここの銭湯の煙突の先に『とんがり帽子』ってのがかぶせてあって、その『とんがり帽子』の影が時計の針の役割をしてたんだ。だから夏休みなんかはその影を見て、ケン坊の家の赤い屋根に向いてれば昼飯だ、朝鮮部落に向いてれば三時のおやつだ、えんとつ長屋に向いてりゃ夕飯だ、ってね、時間を知る事が出来たんだよ……」

 懐かしそうにそう語る老人に、松沢は「ここの銭湯の親父も、爺さん達とその空き地でえんとつの日時計を見てたのか?」と聞いた。
 老人は「ああ、見てたとも。あいつはとんがり帽子の影が長屋に向くと、一目散に家に帰ってたよ。ここの女将は厳しかったからな」と笑った。

「先代は。ここの先代、いわゆるあいつの親父だ。その親父も空き地で遊ぶバカ息子に何か言ってたか」

「ああ言ってたとも。昔はどこの家もそうさ、とんがり帽子が長屋に向いたら帰っといで、って、子供達はいつも親にそう言い聞かされてたもんさ」

 松沢はそんな老人に向かってニヤリと微笑むと、大きく大きく頷いた。
 そして番台に向かってゆっくり顔を向けると、「やっぱりあいつはバカだった!」と叫びながら、番台で新聞を読んでいるコソ泥に指を差し、まるで黄金バットのような不気味な高笑いを浴場に響かせたのだった。

(つづく)

《←目次に戻る》《9話へ続く→》



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誠に図々しいお願いかと思いますが、もし、「えんとつ」が面白いと思われましたら、何卒、応援の一票をお願いします(作者・愚人)

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