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えんとつ4

2012/05/30 Wed 23:08

タイトル4



―4―

 大黒乃湯の暖簾は、昔と変わらず黒地に白抜きの『ゆ』のままだった。
 暖簾を掻き分け玄関に入ると、更に男湯と女湯の暖簾が現れた。
 玄関のスノコをカタカタと鳴らしながら靴を脱ぐと、松沢はガキの頃と同じように青い暖簾を掻き分けながら、男湯の引き戸をガラガラっと開けたのだった。

 脱衣場には夏の高校野球のテレビ中継が騒がしく響いていた。黒ずんだ床板に一歩踏み出すと、昔懐かしい牛乳石鹸の仄かな香りが松沢を優しく包み込んだ。
 番台を見上げるとコソ泥がテレビに夢中になっていた。
 コソ泥というのはこの銭湯の九代目主人のあだ名で、チビで小太りで黒ブチ眼鏡の無精髭は、まさに漫画に出て来るコソ泥そのものだったからだった。

 そんなコソ泥は、松沢に振り向こうともせず、テレビ画面をジッと見つめながら「四百五十円」っとダミ声で唸った。
 一瞬、松沢は「えっ?」と絶句した。
 松沢がこの銭湯に通っていた頃は、確か大人百円、中人五十円のはずだった。週に三回この銭湯に通っていた松沢は、いつもお袋から銭湯代の五十円と牛乳代の三十円を貰い、八十円を握りしめてこの暖簾を潜っていたはずなのだ。
 なのに今では四百五十円。
 確かにあの頃の物価と今とでは全然違うが、しかし、たった三十年の間に九倍も値上がりするなんて少し異常過ぎやしないかと愕然とした。

 松沢は、もしかしたらボッタくられているのではないかと、番台の後に貼ってある『入浴料金表』を見た。
 そこには確かに『大人四百五十円』と書いてあった。しかも『東京都公衆浴場組合』の名が堂々と記されてあるため、その料金はデタラメではないようだ。

「随分と値上がりしたんですね……」

 そう呟きながらポケットの中から千円札を取り出した。
 松沢の声に、突然「はぁ?」と振り向いたコソ泥は、かなり耳が遠くなっているのか、慌てて補聴器のボリュームをカリカリと回しながら「あんだって?」と番台の下の松沢を覗き込んだ。

「いや、しばらく来ないうちに随分と値上がりしたんだなぁってね……」

 するとコソ泥は、「ああ、料金の事か……」と頷きながら番台の上の千円をスッと摘むと、木箱の中の小銭をジャラジャラとさせながらお釣りを取り出した。

「しょうがねぇよね。今はさ、みんなウチに風呂があんだから、誰も銭湯なんか来やしねぇんだもん。少ない客で銭湯を維持してくにはさ、どうしてもこんくらいは貰わなくちゃ、やってけないんだよね……」

 そうブツブツと呟きながら、お釣りの硬貨を一枚一枚番台の上にペタペタと並べていたコソ泥だったが、しかし、突然、テレビの画面からカキーン!っという金属バットの音が響くと、「あっ!」と小さく叫び、そのままテレビに見入ってしまったのだった。

 お釣りを受け取り、脱衣場の奥へと進むと、ミイラのように痩せた老人が全裸のまま肩叩き器にベタッと座り、番台上のテレビを真剣に見つめていた。
 ズラリと並んだ木製のロッカーは、昔から変わらぬ古い古いロッカーだった。
 ロッカーの扉には、数字の代わりに『いろはにほへと』と墨字で殴り書きされていた。
 松沢は、子供の頃、なぜか『へ』ばかりを狙っていた。『へ』が使えた日は幸運が訪れ、『へ』を使えなかった日は不吉な事が起こるなどと、勝手なジンクスをデタラメに作っていた。
 そんな事を思い出しながら、松沢はすかさず『へ』に手を伸ばした。
 しかし、『へ』のロッカーを開けた瞬間、そこに押し込められている黄ばんだステテコが目に飛び込み、同時に何とも言えない饐えたニオイがプーンっと漂って来た。
 きっとあの老人だな、と思いながらロッカーの扉を閉め、忌々しく老人を横目で見た。
 老人は入歯の口を「あうあう」と動かしながら高校野球に夢中だった。肩叩き機のシートにだらりと垂れ下がった金玉が深海魚のようだった。不意に老人に幸運を奪われたような気がして悔しかった。

 しかたなく『よ』のロッカーを選んだ。
 子供の頃、『へ』が取られていた日は、いつも『よ』を使っていた。
『よ』のロッカーは浴場側の一番端のため、服を脱ぎながらガラス越しに浴場内を観察する事が出来た。又、そんなガラスには指名手配犯のポスターがベタベタと貼ってあり、それを眺めるのもひとつの楽しみだった。

 指名手配のポスターを眺めながら脱いだ服をロッカーに押し込んだ。
 日本赤軍の指名手配のポスターはあの頃と同じだった。その中のメンバーの一人が体育の山崎先生にそっくりだった為、山崎先生が密かに『クニオ君』とあだ名されていた事をふと思い出した。
 赤軍のポスターの横には、『オウム』と『おい、小池』の手配ポスターが並んでいた。しかし、最近の指名手配のポスターはデザインが懲り過ぎてて恐怖心がなかなか伝わって来なかった。その点、赤軍のポスターは、赤一色の背景に白黒写真というなかなか硬派なデザインであり、見る者に恐怖心を与えるインパクトは絶大だった。

 そんな古臭いポスターを眺めながら黒く汚れた靴下を右足から引き抜いた。それをロッカーに投げ込みながら、それにしても四百五十円は高すぎる、と、再び銭湯の料金について考えた。
 確かに、利用者が少なくなれば値上げも仕方がない事ではあるが、しかし、そもそも銭湯を利用する客と言うのは、そのほとんどが家に風呂がない貧乏人が顧客である。そんな貧乏人に対して値上げをするなどというのは、顧客のニーズを全く無視しているではないか、と、松沢は元大手居酒屋フランチャイズチェーンのオーナーとして無性に腹が立った。
 民主党は消費税云々を考える前に貧困者の為の銭湯無料開放を考えるべきだ、と考えながらトランクスをロッカーに投げ込むと、『よ』と書かれたロッカーの鍵をチャリンっと抜き取り、鍵に付いているゴム輪を手首にはめたのだった。

 浴場の戸を開けると、テレビドラマの銭湯シーンによくある『桶がカコーンと響く効果音』が松沢を迎えてくれた。
 先客は老人が一人と、青年が一人いた。老人は洗い場の真ん中で五分刈りの頭をシャカシャカと忙しく洗い、青年は浴槽縁に腰掛けては湯の中でゆらゆらと揺らす自分の足をボーッと見ていた。

 浴槽は四つ並んでいた。
 青年が縁に腰掛けているのが『深風呂』で、その横にあるのが子供用の『浅風呂』。そしてそこから少し離れた場所に『薬湯』があり、その隣りには『電気風呂』があった。
 松沢は、頭を洗う老人の背中一面に描かれた、何が何だかわからない複雑な刺青をチラチラと見つめながら『薬湯』へと向かった。

 メインの『深風呂』に入るには、まずは『薬湯』で掛け湯をしなければならなかった。
 下町の銭湯には汗にまみれた職人や乞食が多いため、メインの『深風呂』に入る前には、まずは『薬湯』で股間と足の裏を消毒殺菌してから入るというのが暗黙のルールとなっていたのだ。
 子供の頃から職人の親父にそう教え込まれていた松沢は、四十を過ぎた今でも無意識にそれを守っていた。薬湯の浴槽の壁には『今日はレモンの湯』と書いてあるプレートがぶら下がっていた。昔は消毒臭の強い『六一〇ハップ』だけだったが、最近の薬湯は日替わりしているようで、そのプレートには、月曜日アロエ・火曜日ジャスミン・水曜日みかん、と曜日別のメニューが記されていた。
 そんなプレート看板を見つめながら、しゃがんだ股間に黄色いレモンの湯を掛けた。それは明らかにバスクリンだった。こんなものでいったい何が消毒できるんだと思うと、とたんにアホらしくなった。

 深風呂の湯は異様な程に熱かった。向かい側の縁に腰掛けている青年の白くてムニムニした足は、まるで茹で蛸のようにそこだけが真っ赤に火照っていた。
 こんなに熱い湯はとてもじゃないが入れない。そう思った松沢が、深風呂と浅風呂の境目にある、『水』と青く彫り込まれた巨大な蛇口を捻ろうとすると、不意に青年が「あっ」と顔を上げた。
「えっ? ダメなの?」
 松沢が目を丸めながら聞くと、青年は「はぁ……」と曖昧な返事をしながら、洗い場で頭を荒っている刺青親父を横目で見た。
 下町銭湯歴の長い松沢は、そんな青年の態度を見てすぐに察しが付いた。アレ系の親父というのは熱い湯しか認めず、湯を水でヌルめようとすればたちまち狂ったように怒り出す癖があるのだ。
 松沢の親父もそうだった。幼い頃、熱湯のように熱い湯に水を入れては、何度殴られた事か知れない。

 そんな異様に熱い深湯に、五分刈りの頭をシャカシャカと水切りしながら刺青親父がやって来た。
 その親父の顔には見覚えがあった。鉄工所の裏に住む左官屋の親父だ。
 左官屋の親父は「ららりりぃ~」と演歌らしき鼻歌を唄いながら浴槽の脇にしゃがむと、ケロリンの黄色い桶で湯を掬い、痩せた身体に、その熱湯をバシャバシャとぶっかけた。
 そして電光石火で浴槽に潜り込み、「くはぁ~」と唸りながら肩まで湯に浸かった。
 この親父、頭の血管がプツンと切れないだろうな、と松沢が心配していると、親父はそのまま浴槽の角へと移動し、壁からニョキッと顔を出していた鉄パイプの先に口を押し付けると、いきなり「タツ!ぬるいぞ!」と怒鳴ったのだった。

 その鉄パイプは焚き場に繋がっていた。松沢の親父もよくそのパイプに向かって、焚き場の親父に「もっと熱くしろ!」とハッパを掛けていたものだった。
 しかしながら、カップヌードルが作れる程に熱いこの熱湯がヌルいとは、いったい下町職人の身体と神経はどうなってんだ、と松沢は浴槽の縁に腰掛けながら、肩まで湯に浸かる左官屋を見てそう思った。きっと彼らは、酒の飲み過ぎで自律神経がイカれ、体温調節が正常にできなくなっているに違いない、と思った矢先、突然、左官屋が青年に話し掛けた。

「テメェはまだ仕事に行ってねぇのか?」

 青年はコクンっと小さく頷くと、そのままブヨブヨに脂肪がついた自分の腹をジッと見つめた。

「で、テメェはいくつになったんだ」

「……23……」

「けっ。二十三にもなって何やってんだテメェは。生意気に昼間っから風呂なんか入りやがってよ。テメェが俺の息子だったら、今頃ぁスマキにして隅田川に放り込んでる所だよ、ったく」

 ニートだな。と、松沢は青年のブヨブヨの身体を見ながらそう思った。こんな時間に銭湯でのんびりしている若者というのは、工場の夜勤出勤かホームレスかニートくらいしかいないのである。

「仕事くらいいくらでもあるだろ。アレやコレやと注文ばっか付けてねぇでよ、ゴミ拾いでも何でもしたらいいじゃねぇか。鏡で見てみろいテメェのその身体。まるで豚じゃねぇか。ブヨブヨに太った糞豚だよテメェは」

 相変わらず下町親父と言うのは口が悪かった。いや、それはもはや口が悪いと言うよりも完全に相手を罵っていた。
 しかし青年は反論する事も無く、湯の中でゆらゆらと揺らす自分の足を黙ったまま見つめていた。
 そんな平成の青年と昭和の下町親父を傍から眺める松沢は、その両方を生きて来た中途半端な男だった。

 冷水をケロリン桶三杯頭からぶっかぶると、そのまま浴場を出た。身体中からほわほわと湯気を上らせながらサッシが開けっ放しにされている窓際へと進んだ。
 そこは建物と塀の隙間の細い通路だった。そこに植木が並び、ちょっとした中庭が出来上がっていたのだ。
 そんな中庭に濡れたタオルを絞ると、縁側に置かれた竹編みの椅子に腰掛けた。どんなに暑い夏でも、この中庭からはイイ風が入って来た。そのひんやりとした風は中庭に掘ってある井戸が原因らしく、その風は冷水で引き締まった湯上がりの身体を心地良く涼ませてくれた。

 しばらく涼んだ後、そのまま番台横の冷蔵ケースへと進み、番台のコソ泥に「フルーツ牛乳ね」と告げながら、色の付いた牛乳瓶を一本取り出した。再び縁側へ行くと、『パイン』と書かれた牛乳瓶の蓋をペコッと開けた。ものの二口で一気に平らげてしまった。
 極楽だった。新宿の高級マンションでは味わえない、独特な極楽だった。
 しかし、そんなささやかな極楽もあと一ヶ月もすれば地獄へと変わる。
 拘置所の風呂で見た、あの、垢と陰毛が浮かぶ湯をふと思い出した松沢は、それまでの清々しさは吹っ飛び、瞬く間にどっぷりと暗い気分へと落ち込んでしまった。

 そんな気分を紛らわせようと、竹編みのテーブルの上に置いてあった雑誌を手にした。表紙を捲ると、いきなり貴乃花と宮沢りえの婚約解消の記事が現れた。
 なんだこりゃ? と、もう一度雑誌の表紙を見ると、そこには二十年前の日付が記されていた。
 どうしてこんな古い週刊誌が置いてあるんだろうと、不思議に思いながらページをパラパラ捲っていると、雑誌の後半に『大黒乃湯埋蔵金伝説』と書かれた白黒記事を発見した。
 余程、雑誌に取り上げられた事が嬉しかったのか、よく見るとラックの中には同じ二十年前の雑誌が四冊も並んでいた。しかも、そのページには御丁寧にも付箋が付けられており、読んでくれとばかりの有り様だった。

 他に読むものが無かった松沢は、貧乏揺すりをしながらその記事を読んだ。
 記事の隅に、まだ髪の毛がふさふさしていたコソ泥の写真が載っていた。写真の下に『大黒乃湯九代目亭主・小森利彦五十八才』と堂々と書かれていた。しかし、どこかのガキが落書きしたのか、その名前の横には『コソ泥エロガッパ』とボールペンで書き添えられていた。

 記事を読み終えた松沢は、深い溜息をついた。
 この町の住人達が、何かというと『大黒乃湯埋蔵金伝説』を語りたがる気持ちが何となくわかったような気がした。
 例えそれがデタラメだったとしても、すぐ足下に人生を大きく変える程の財宝が唸っていると聞かされれば、夢を抱いてしまうのが人情なのである。
 今まで、何かというと『大黒乃湯埋蔵金伝説』を語っていた甲斐性なしの地元民を散々馬鹿にしていた松沢だったが、しかし、自分自身が同じ『甲斐性なし』の立場となった今、遂に松沢もそんな大黒乃湯埋蔵金伝説をふと夢見てしまった。

(もし、本当に財宝を掘り起こせば、刑務所には行かなくてもいいんだ……酒屋の親父には五倍の金額を弁償して、保釈金を出してくれた姉ちゃんには一億円くれてやろう。そして会社を買い戻し、新宿のマンションも買い戻し、そこに妻と子供を呼び戻すんだ。いや、新宿のマンションなんかよりシンガポールに移住したほうがいい。金は腐る程あるんだ、今更新宿なんかに住むもんか。シンガポールの超高層マンションの最上階を買って、その屋上で息子と二人プールで寛ぎながら、のんびりと暮らそう……)

 そんな事を考えながら、フルチンのまま中庭の風に吹かれていた。
 静かにソッと瞼を閉じると、二年前にシンガポールで見た美しい夜景がリアルに浮かんで来た。
 仕事も家庭も絶頂期だったあの頃、シンガポールに家族旅行した事があった。あの時の優雅な記憶が、最近特に思い出されて仕方なかった。今の松沢にとって、あのシンガポールの思い出は、もう二度と叶う事のない、切ない思い出となってしまっていたのだ。
 あの時、ペニンシュラホテルのチャイニーズレストランで食べた、最高級のフカヒレスープの味が不意に口の中に甦った。まだ幼かった息子が「パパ、ウマウマ」とテーブルを叩きながらフカヒレをねだり、美しい妻に「ゆう君はまだ早いの」と強引に離乳食を食べさせられていた。
 そんな幸せだった日々の光景がありありと浮かび、強烈に胸が締め付けられた。
 妻などどうでもいい。あんな薄情女はこっちから離縁してやるが、しかし、刑務所に入れられる前に、せめて一度だけでも息子に会いたかった。そしてこの腕に息子を強く抱きしめ、その柔らかくも乳臭い耳元に「ごめんよ」と一言謝りたかった。

 そんな息子のあどけない笑顔を思い出していると、閉じていた瞼から涙がツーっと溢れた。その涙が唇に流れ込み、舌先に塩っぱさを感じたその瞬間、突然、背後から男に声を掛けられた。

「その写真、実は私なんです……」

 慌てて涙を拭いながら振り向くと、松沢の右肩からコソ泥の醜い顔が覗き込んでいた。

「その埋蔵金はね。本当にあんだよ」

 松沢の太ももに置いてあった週刊誌をそう指差しながら、コソ泥はゆっくりと腰を起こし自慢げに笑った。

「……あんた、見かけない顔だけど、仕事でこの町に来たのかい?」

 コソ泥は松沢の顔を忘れているようだった。松沢がこの町にいた頃の番台は女将さんだった為、コソ泥が松沢の顔を知らなくて当然だった。
 松沢は、今更ながら、「実はお宅の長屋でお世話になっている松沢です」、と挨拶しづらくなっていた。しかし、これから一ヶ月間はこの長屋で暮らさなければならない事を考えると、このまま知らん顔しているわけにもいかないと思い、改めてご挨拶しようとフルチンのまま体勢を整えた。
 すると、そんな松沢を見つめながら、コソ泥が急に声を潜めた。

「あんた、旅の人みたいだから教えてあげるけどね、実は埋蔵金の隠し場所を示す暗号が、いよいよ解読されようとしてるんだよ……」

 コソ泥のその言葉で、挨拶をしようとしていた松沢はタイミングを逃した。
 挨拶をしないまま「そうなんですか……」と呟くと、コソ泥は更に声を潜め、更に目を輝かせ、まるで国家機密を漏らすスパイのように、怪しく言葉を続けた。

「今まで謎に包まれていた暗号をね、今やっとフランスの先生が解読してくれる事に決まったんだよ。あの先生にかかればどんな難解な暗号とて瞬く間に解読されて……ふふふふ……慶長小判三百枚だよ、時価六億だよ、もうすぐそれが私のものになるんだよキミ……」

 ふふふふ……と笑った辺りから突然興奮し始めたコソ泥は、いきなりモードが切り替わった。
 コソ泥の口調は国家機密を漏らそうとする怪しいスパイモードから宝塚歌劇団モードへと切り替わったようだった。両手を大きく広げ、天井を見上げながら、今にも松沢に抱きつかんばかりの勢いで「キミ!」と叫んでいる。
 夏の銭湯の縁側で、ミュージカル風にそう叫ぶコソ泥と、フルチンのままそれを聞いている松沢の二人は、あまりにもマヌケな光景だった。

「そのフランスの先生ってのは、いったい誰なんですか?」

 突然のモード変更にイラッと来た松沢は、たっぷりと皮肉を込めた目でコソ泥を見つめながらそう聞いた。

「それはキミ、ジュスタン先生だよ。キミも名前くらいは聞いた事があるだろ、フランスの国立大学で考古学を研究している世界的にも有名な先生だよ」

 おもいっきり胡散臭い。世界的にも有名なフランスの考古学者が、こんな日本の下町の、まして何の根拠も証拠もない埋蔵金伝説などに耳を貸すわけがない。こんな与太話をまともに相手にするのは三流週刊誌くらいだバーカ。と、少し前の松沢ならそう腹を抱えて笑っていただろう。
 が、しかし今の松沢は違った。次の公判までの一ヶ月の間、過去を思い出しては長屋の隅でメソメソと泣いてばかりいるくらいなら、いっその事、そんな与太話を全面的に信じ、万にひとつの宝探しに精を出していた方が、よっぽど気分的に救われるのではないかと思い始めたのだ。
 そう思い始めると、床屋の北原もきっと同じ気持ちなんだろうと思った。このまま一生、この町で黙々と他人の髪を切って年老いて行かなければならないという現実。その恐怖を紛らわす為に、北原は『大黒乃湯埋蔵金伝説』という根も葉もない伝説を語っては鬱憤を晴らしていたんだろう。
 そう思うと、あれだけ憎かった北原が急に哀れに思えた。

「その暗号、私にも教えて下さいよ」

 松沢は、そこで初めてフルチンの股間をタオルで隠しながらそう聞いた。

「いやいやキミ、それは極秘のトップシークレットだから」

 コソ泥はそう大袈裟に手を振りながらも、しかし満更でもない笑顔を浮かべていた。
 その仕草を見て、きっとこいつは聞いて欲しくて堪らないんだと松沢は確信した。

「私なんてどうせ余所者ですから暗号を聞いた所でチンプンカンプンですよ。それに、そんなフランスの立派な先生が苦心して解いてる暗号を、私なんかが解読できるわけないじゃないですか。だから、参考までに教えて下さいよ」

 まるでインチキ漏電機を一人暮らしの老人に売り付ける訪問詐欺集団の一味のような顔をして、松沢は腰を低めた。

「んん……絶対誰にも言わない?」

「はい。絶対に言わない」

「マスコミとかにも絶対に言わない?」

「はい。絶対に言わない」

「じゃあ絶対に約束だよ」

「はい。絶対に約束します」

 そんな『絶対』を繰り返した後、コソ泥は遂にその暗号を教えてくれた。

【夏の日の、あのマチコの町のとんがり帽子の先】

 松沢は、その暗号を忘れまいと、慌ててテーブルの上のボールペンを握ると、週刊誌にくっついていた付箋の紙片をページから引き離し、そこに暗号を書き込んだ。

 付箋を引き剥がされたページには、さっきとは違うコソ泥の写真がまた載っていた。
 髪をふさふささせながらソファーにふんぞり返り、あたかも地元の有力者のような顔つきで得意気に語っているコソ泥のその写真の下には、『カツラの短小包茎』と落書きされていたのだった。

(つづく)

《←目次に戻る》《5話へ続く→》



アルファポリス「第3回ドリーム小説大賞」に参加しております。
誠に図々しいお願いかと思いますが、もし、「えんとつ」が面白いと思われましたら、何卒、応援の一票をお願いします(作者・愚人)


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