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えんとつ1

2012/05/30 Wed 23:11

タイトル1



―1―

 バス停に降りるなり、大型ダンプが撒き散らす埃だらけの風に、松沢は一気に不愉快になった。
 排気ガスと埃にまみれるネズミ色の町。そんな大通りの歩道をとぼとぼと歩きながら、慌ただしく走り去る車の騒音と、どこからか聞こえて来る鉄工所の甲高い音を強制的に聞かされていた松沢は、不意に猛烈な吐き気を覚え口内に溜る苦い唾をゴクリと飲んだ。

 地元に帰って来たのは二十年ぶりだった。六年前、父親が死んだときも、その四年後に母親が死んだときも松沢は帰らなかった。葬式の全ては、嫁いだ姉が取り仕切ってくれ、長男である松沢は結局一度も顔を見せなかった。
 二十年前、父親と大喧嘩をして家を出たのは二十歳の時だった。子供の頃から貧乏のどん底で育った松沢は、こんな糞長屋に二度と帰って来るもんかと心に誓いながら華やかな街に飛び出した。
 そこで都会の冷たい風に打ちひしがれ、世間の辛さというものを身を持って知る事が出来れば、再びこの町にのこのこと舞い戻って来る事もできたろうが、しかし松沢はものの三年も経たずして成功した。
 運良くバブルの波に乗り、友人の保証で銀行から金を借りて居酒屋経営に乗り出すと、店はあれよあれよという間にチェーン展開し、気が付くと全国に五十店舗を構える居酒屋チェーンのオーナーとしてしこたま銭を稼いでいたのだった。
 そうなると松沢の中で地元が糞のように思えてきた。成功すればする程、華やかな生活になればなる程、あの貧困の中で過ごした地元を忌々しく感じ始めた。
 そんな事から、どれだけ立地条件が良くても、地元にだけは絶対に自分の居酒屋を出店しなかった。それが、幼い頃、散々自分を苦しめてきた地元に対する唯一の報復だと、執念深い松沢はそう思っていたのだった。

 新宿の高層マンションの最上階から、元ファッションモデルの妻と四才の息子と見下ろす東京。そんな灰色の高層ビルの先に、松沢の地元を示すかのように完成間近の東京スカイツリーがポツンと突っ立っていた。東京スカイツリーを目にする度、あそこに原爆が落ちればいいのに、といつも拳を強く握った。それほどまでに、松沢は地元を憎んでいたのだった。

 そんな松沢が二十年ぶり帰って来た。
 いや、帰って来たのではなく、正確には帰って来なくてはならなかった。
 それは、今から半年前、親友の多額の借金の保証人になっていた松沢は、思いもよらぬ親友の失踪により、居酒屋チェーンを手放さなければならなくなったからだった。
 店も会社も全て差し押さえられた。今まで築き上げたものが一瞬にして終わった瞬間だった。
 幸い、妻の名義で買っていたマンションはかろうじて取られずに済んだ。貯金もなく、生活費にも困りながら、超高級マンションの最上階で妻と子と暮らすという不思議な生活が続いた。なんとかこの状況から脱出したい。脱出しなければ家族三人野垂れ死にしてしまう。そう焦った松沢は、居酒屋時代に取引していた酒屋を尋ねた。

 松沢は、酒屋の社長に、「六百万を支払えば、権利を差し押さえられた五十店の居酒屋のうち、一番売上げの良かった新宿店と銀座店の二店を買い戻す事が出来る」と嘘を付いた。
 そんな松沢のデタラメを社長は信じた。今まで松沢の居酒屋は、アルコールとドリンク類の全てをこの酒屋から仕入れていた。酒屋には毎月かなりの利益を与えていた。だからこの酒屋の社長は、居酒屋が復帰した際には再び当社と取引をするという条件を付け、松沢に六百万円を貸してくれたのだった。

 六百万円あれば小さな居酒屋を開業できる。小さな店でもいい、おまえと二人してもう一度から一からやり直すんだと、六百万を妻に見せながら熱く語ったその翌日、妻は松沢が寝ている隙に息子を連れて出て行った。金庫にしまっておいた六百万円はなく、代わりに離婚届の紙が淋しく置いてあった。
 その三日後、弁護士から電話があった。妻に雇われた女弁護士は、この六百万円は子供の養育費とさせて頂きますから、あとは離婚届にサインをしてくれるだけでいいのです、と、まるで通販のテレオペのような口調で淡々と語った。
 ふざけるな、と感情的に怒鳴ると、女弁護士は「録音してますから、暴言を吐きますと不利になりますよ」と柔らかく笑った。
 とにかく妻と話しをさせろと言う松沢に、女弁護士はその必要はございませんの一点張りだった。極めつけは、二ヶ月以内にマンションを立ち退くようにという無情な警告だった。しかし、このマンションの名義は妻だったため、もはや松沢にはどうする事もできなかったのだった。

 マンションを立ち退く期日が刻一刻と迫って来た。ここを追い出されれば、松沢には行く場所はない。金もない。頼る者もいなかった。
 ホームレス。いつもマンションのベランダから新宿中央公園で野良犬のように暮らしているホームレスを見下ろしながら、あんな風にはなりたくねぇなと顔を顰めていた。
 そんなホームレスに、今自分がなろうとしているとは、あの時、夢にも思っていなかった。
『あの時』と言っても、それはつい数ヶ月前の事である。その、つい数ヶ月前は、自分でも怖くなる程の幸せの絶頂にいたのだと思うと、その生々しい実感に全身の力が抜けて行くようだった。

 しかし、そんな悲惨な仕打ちはこれだけでは済まなかった。
 マンションを立ち退く期日が一週間と迫って来たある日の朝、珍しくインターホンのベルがけたたましく鳴り出した。
 妻が出て行ってからというもの宅急便の類いは一切寄り付かなくなり、ここ最近インターホンが鳴った事などなかったのだ。
 ベッドから飛び起きた松沢が、なんだよこんなに朝早く、と不審に思いながらインターホンのモニターを見ると、そこには数人の男が映っていた。
「警察の者ですが」
 モニター越しにいきなりそう名乗る男達は、物腰は柔らかいが、しかしその目は背筋がゾッとするほどに鋭かった。
 いきなり部屋にドカドカと入り込んで来た男達は、戸惑う松沢を無視して部屋中を荒らし始めた。

「あんた、松沢俊樹さんだよね。詐欺容疑で逮捕状が出てるから」

 演歌のセリフのようにそう告げる男は、トランクス姿の松沢に『逮捕状』と書かれた紙をパリっと示した。
 その逮捕状には、酒屋の社長から六百万円を騙し取った云々の文書が端的に書かれていた。
 なんと、新宿店と銀座店が買い戻せるなどと嘘を付いて金を借りた件が詐欺になってしまったのだった。

 生まれて初めて手錠を掛けられた。手錠にぶら下がっている青い縄を腰に巻かれ、屈強な刑事達に挟まれるようにしてマンションを出た。
 そのまま、通称ブタ箱と呼ばれる留置場に入れられた。高級マンションとは雲泥の差だったが、遅かれ早かれあのマンションからは追い出される身だったと思うと、新宿中央公園のホームレスよりはまだブタ箱のほうがマシだと思った。

 弁護士を雇えない松沢には、国が雇ってくれた国選弁護士が付いた。
 弁護士は、死んだ魚のような目をした老人だった。面会室のアクリル板越しに、「被害者は、弁償さえしてくれれば告訴を取り下げてもいいと言ってるようですが」と気怠そうに呟くと、老ロバのような顔で「どうします?」と松沢を見つめた。

「今は無理ですが、なんとかして金を作って弁償します。ですから、取りあえずここから出して下さい」

 そう松沢が頼むと、弁護士は耳から突き出た白髪混じりの耳毛を指先でツンツンと引っぱりながら、「保釈金は払えますかぁ?」と人を小馬鹿にしたように微笑んだ。

「保釈金っていくらなんですか?」

「保釈と言っても、保釈が認められるのは起訴後の第一公判が終わってからの事ですがね、まぁ、あなたは罪を認めてるわけだし、それに初犯だから、うまく行けば百五十万くらいじゃないですかねぇ……」

「姉がいます。百五十万くらいだったら貸してくれると思います。だから、姉に電話させてもらえませんか」

「ふふふふ。電話は無理ですよ。電報か手紙で頼んで見なさい。三日後にまた来ますから」

 その晩、看守からノートとペンを借りた松沢は、ダメ元で姉に手紙を書いた。一生掛かっても必ず返すから保釈金を貸して欲しい、と書いていると、それを横から覗き込んでいた前科五犯のコソ泥が、「その場合は、三倍にして返すと書くほうが効果的だな」とニヤリと笑った。
 前科五犯のコソ泥の言う通り『三倍にして返す』と書いた手紙を姉に送ると、その二日後、突然姉が面会に訪れた。姉はアクリル板の向こう側で終始泣いていた。そして、面会時間が残り三分に迫った頃、旦那に内緒で定期を解約してあげるから、と言ってくれたのだった。

 保釈されるにあたっては、保釈金と身元引き受け人、そして住所が必要だった。姉は保釈金を貸してくれると同時に身元引き受け人になってくれる事も約束してくれた。
 保釈金と身元引き受け人は姉のおかげでなんとかクリアできたが、しかし問題は住所だった。
 現在の松沢は住所不定だった。というのは、妻は松沢が逮捕されたと知るや否や、早々と新宿のマンションを売っぱらってしまっていたのである。
 住所不定では保釈は絶対に無理だった。焦った松沢は電報で再び姉を警察署に呼びつけると、住む場所は自分で何とかするから取りあえず姉の自宅に住所だけでも登録させてもらえないかと頼んだ。
 すると姉は、分厚いアクリル板の向こう側で不思議そうな顔をした。そして、首を傾げながら「どうしてよ。俊ちゃんにはお父さんが残してくれた実家があるじゃない」と実家の長屋の話しを始めたのだった。
 松沢は、そこで初めてあの長屋の家がまだある事を知った。六年前に父親が死に、四年前に母親が死んだ。それであの長屋は引き払ったものとてっきり思っていたが、しかし、あの家はまだ借りたままだという。

「お父さんがね、退職金のほとんどを家賃の前金として払っていたの。確か、七年分の家賃を払っているはずだから、あと一年は住めると思うわ……あの頃、まだお父さんが元気だった頃にね、長屋を取り壊してマンションにするって話しが持ち上がったの。結局は、そのマンションの話しは無くなったんだけど、それでお父さん、この長屋を追い出されたら大変だって思ったのよね。だから自分が死んでもお母さんが不自由無く生活できるようにって前家賃を払っていたのよ……」

 姉はバッグの中からハンカチを取り出しながらポツリと呟いた。そして、ズズッと大きく鼻を啜ると、そのハンカチをソッと鼻に当てながら、潤んだ声で「それに……」と話しを続けた。

「お父さんね、俊ちゃんがもし事業に失敗しても、いつでもここに帰って来られるようにってね……だから長屋の名義は、俊ちゃんの名前になってるのよ……」

 そう涙ぐみながら話す姉に、松沢はおもわず鼻で「ふん」と笑ってしまった。

「たかだか長屋の前家賃くらいで……」

 松沢がそう呟いた瞬間、分厚いアクリル板の向こう側で、姉が「えっ?」と目を丸めた。
 松沢は、パイプ椅子をギギッと軋ませながら前屈みになると、アクリル板にポツポツと開いた穴に顔を近づけ、「たかだか長屋の前家賃ごときで遺産相続のつもりかよ。どこまで貧乏臭いオヤジなんだよ、って言ったの」と吐き捨てるように笑った。
 姉は突然、キッ!と下唇を噛んだ。そして松沢を睨みつけながら噛んだ唇をブルブルと震わせると、「お父さんにはそれが精一杯だったのよ」と、感情的に唸った。
 姉のその震える姿を見て、これ以上言ってはマズいと思った松沢は、残っている一年分の家賃を大家から返して貰えないかと口に出そうなのをグッと堪えながら、神妙に「ごめん……」と呟いては項垂れたのだった。

 その翌日、さっそく姉が松沢の住所を新宿のマンションから長屋へと移してくれた。
 二十日間勾留され起訴されると、松沢の身柄はブタ箱から拘置所へと移監された。拘置所はブタ箱と違い食事も旨く部屋も清潔だったが、しかしタバコが吸えないのが辛かった。
 そんな拘置所で修行僧のように厳しい生活を更に二十日間ばかり過ごした後、いよいよ第一公判の日がやって来た。
 厳粛な法廷に立たされた松沢は、黒い法衣をまとった裁判官の前で素直に罪を認めると、その一時間後、直ちに保釈が認められた。
 保釈金は弁護士が予想していた通り百五十万円だった。姉が定期を解約してくれた百五十万円を検察庁に届けると、松沢は速やかに檻の中から脱出する事が出来たのだった。

 拘置所の門の前で、手錠も腰縄も付いていない自由な身体を大きく広げながら、長い長い背伸びをした。四十日ぶりの娑婆の空気は心地良く甘く、脳天から降り注ぐ夏の太陽は汚れた毛穴を日光消毒してくれるようだった。
 こんなに清々しい気分は久しぶりだった。この気分を例えるなら、サウナの後の水風呂のようだと、松沢は一人そう微笑みながら拘置所の高いコンクリート塀を見上げた。
 が、しかし、これからの事を思うとそんな気分も一気に凹んだ。
 次の公判日までに、弁償する六百万円をどうやって作ればいいんだと思うと、サウナ後の水風呂に入ろうとしていた所を再びサウナの中に戻されたような気分になった。
 しかも、所持金は姉が当座しのぎにくれた二万円しかなく、着替えの服も携帯電話も何も無いのだ。

 清々しい気分から一転して、松沢の心には貪よりとした不穏な雲が広がった。鼻っから六百万を作る宛などあるわけも無く、一ヶ月後にはまたここに戻って来なければならないのかと思うと、青空にそびえる高いコンクリート塀が恨めしくて仕方なかった。
 再び塀の中へ戻されるまでの間、たった二万円しかない所持金で、どうやって生活して行けばいいのだ。そう思うと凄まじい不安に襲われ、その場にしゃがみこんで大声で泣き出したい気分に襲われた。

 が、しかし、本当に泣き出したい気分にさせられたのは、再び塀の中に戻される恐怖よりも、所持金が二万円しか無いという不安よりも、なにより、これからあの忌々しい地元のオンボロ長屋で生活しなければならないという事が、泣きたい気分の一番の理由だった。

(つづく)

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