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111最終話タイトル


「おい。智子。例の書類、どこやった?」

 朝の日差しが注ぎ込む玄関で、夫がカバンの中をガサゴソと漁りながらリビングの智子に呟いた。

「えっ? 私知らないわよ……」

 水道の蛇口を止めた智子は、濡れた手をエプロンで拭きながら玄関へとスリッパを鳴らした。

「どうしてだよ、昨日おまえに、これ明日の出張に持っていかなきゃなんない大事な書類だからなって渡したじゃねぇか……」

 夫は「ちっ」と溜息をつきながら、更にカバンの奥のほうを弄った。
 いつもこうだ、と、智子は玄関で慌てている夫を見つめながら、大きな溜息と共に足を止めた。

 結婚して十七年。夫はいつもこの調子だった。肝心な事はいつも智子に押し付け、それでいて智子が失敗すると、狂ったように智子を責め立てる。じゃあ最初から自分でやればいいじゃない、と口答えしようものなら、夫は容赦なく智子を殴った。それは、DVと呼べるほどの大した暴力ではなかったが、それでも夫の暴力は、家庭を貪よりと暗く陥れてしまったのだった。

「確かに昨日の夜、お前に渡したよな? 覚えてるだろ、A四の茶封筒に入ったやつ」

 夫がイライラしながらそう呟いた時、ふと、下駄箱の上に茶封筒がポツンと置いてあるのに気が付いた。

「ここにあるじゃない」

 そう言いながら智子が茶封筒を摘まみ上げると、夫は「あっ、本当だ」と、罰悪そうに笑って誤魔化した。
 夫は何事もなかったかのように、ゴソゴソと革靴を履き始めた。
 しゃもじのように小さな靴べらを夫に渡しながら、智子は「ねぇ、美鈴の事なんだけど……」と、夫の顔をソッと覗き込んだ。

「……携帯も繋がらないんだろ?」

 夫はそう答えながら、黒いナイロン地の靴下を革靴の中にスポッと滑らせた。

「昨日、一回だけ繋がったんだけど、それからずっと留守電になってるのよ……」

「じゃあどうしょうもねぇだろ。どこにいるかもわかんねぇ、携帯も繋がりませんじゃ、どうする事もできねぇよ」

「でも、家出して今日でもう一ヶ月になるのよ。そろそろ警察に……」

「やめとけ、やめとけ。警察に頼んだ所で、どうせまたあの少年課の糞刑事が、ああまたお宅の娘さんですか困った娘さんですねぇ、って面倒臭そうに言って終わるだけじゃねぇか。そんな事、今まで何度繰り返して来たんだよ、まだわかんねぇのかおまえは」

「でもあの子はまだ十七才なのよ」

「十七才ならもう大人じゃねぇか。ほっとけほっとけ、あんなバカ娘、こっちから追い出してやらぁ」

 夫はそう投げ遣りに呟きながら、玄関のドアを乱暴に開けたのだった。

 マンションの下の公園では、バスを待つ幼稚園児達の元気な声が谺していた。そんな園児達の声に混じりながら、エレベーターに向かう夫の靴音が響く。
「いってらっしゃい」と呟くが、夫は後も振り向かず、その足音もすぐに細く消えていったのだった。

 リビングのソファーに腰を下ろした智子は、落ち着きなく指をスリスリと絡ませながら、夫の飲みかけのコーヒーを見つめていた。
 一人娘の美鈴に家出癖がついたのは、今から二年前の美鈴がまだ中学生の頃からだった。
 最初のうちは、早くて一日、長くても三日が限度だった。しかも行く先はいつも決まった先輩の家だった為、智子達も然程騒ぎ立てる事もなく、気長に美鈴の癖が治る事を祈っているだけだった。
 しかし、高校を数ヶ月で辞めてしまってから、その癖は本格的に厄介なものとなった。行く先もわからないまま数ヶ月も帰って来ない事が頻繁に続くようになった。
 そんな娘を、夫はいつもの暴力で捩じ伏せようとした。その度に美鈴は狂ったように反抗した。

『この家は呪われてるんだよ! おまえらも呪われてるんだよ! だからこんな家にいたくないんだよ!』

 夫に殴られたその晩は、美鈴は決まってカッターナイフで手首に傷を付けた。

(美鈴が言う通り……やっぱり私は、まだ呪われているのかも知れない……)

 そう思いながら、夫の飲みかけの生温いコーヒーを一口飲んだ。
 小菊、中村楼、吉村のお婆ぁさん……。
 コーヒーの苦さが舌に溶け込んでいくように、そんな言葉が智子の荒んだ心の中に消えて行く。
 あれから二十年。ひとときもあの悪夢を忘れた事はなかった。誰にも話せないまま二十年間胸に閉じ込めている悪夢は、時折、智子の脳裏にリアルに甦った。
 遊郭の薄ら淋しい薄暗さ。男達の荒い息。金魚が畳をピタピタと跳ね回る音。人肉の焦げた匂い。そして白塗りの女郎達のあの淋しそうな目。
 それらが、智子の脳、耳、鼻、心をリアルにくすぐり、その度に智子は重度のウツ病に脅かされるのであった。

(証文を焼き払ったというのに、私はまだあの悪夢から抜けだせれない……)

 深いウツの渦の中に引き込まれそうになりながら、智子は無意識にテレビのリモコンを掴んだ。
 自分でも、あれ?っと思った。日頃、テレビなどほとんど見た事が無いのだ。

(どうしてリモコンなんか……)

 そう不思議に思いながらも、無意識にスイッチを押していた。

 朝のワイドショーが画面に映し出された。どこかのホテルが凄まじい炎に包まれる火事の現場を、緊迫した表情のリポーターが必死に伝えていた。
 コレ系の低俗番組は特に嫌いだった。智子は眉を顰めながらチャンネルを変える。

「凄い炎です! 現在朝の九時! 御覧の通り上空は真っ黒な煙に包まれています! あっ、今、上空に自衛隊の消火ヘリが到着しました! 今のところ生存者は確認されておりません! 辺り一面炎に包まれております!」

 レポーターの叫ぶ言葉は支離滅裂だった。しかしそれでも、見る側にはその緊迫した状況がちゃんと伝わって来るから不思議だ。
 そんな画面を見ながら再び生温いコーヒーを啜った。苦いコーヒーの塊を喉にゴクリと流し込もうとした瞬間、突然それが逆流した。
 ゴボッ! ゴボッ! と激しく咳き込みながら、それでも智子はテレビの前まで這っていった。今、この画面に、確かに見覚えのある商店街が映ったのだ。

 鼻の穴から苦い汁がタラリと垂れた。それをTシャツの袖で拭い取りながら、現場はどこの町なのかと、チャンネルを狂ったように変えまくった。

「いやぁ、しかし凄い火事ですね。宿泊客が残ったままのこれほど大きなホテル火災というのは、一九八二年に発生したホテルニュージャパン以来じゃないですか奥田さん」

「奥田さん」と名指しで振られたコメンテーターらしき男の得意気な顔が画面一杯に映し出された。

「そうですね。これほどの犠牲者を出した火災は、ホテルニュージャパン以来、最近では珍しいですね」

 再び、司会者のドス黒い顔が画面に戻った。

「このホテルは、十年前にも火災を起こしてるんですよね。確かそうですよね奥田さん」

「そうです。十年前に二十五人の死傷者を出してますね。その前にも、この場所には古いアパートがあったんですが、それも何者かの放火により全焼しております」

 リモコンを握ったままの智子の手がブルと震えた。

「ひゃあぁ、おっかないなぁ、どうしてなの? これほど立て続けに大火災が起きるなんて、なんかこの場所、不吉な事があるんですかねぇ、下島さん」

 新しいコメンテーターの顔が画面に映った。下島と呼ばれた男の前には『犯罪心理学者』と書かれた肩書きが置いてあった。

「まぁ、不吉な事と申しますかぁ、元々この場所には大きな遊郭があったんです。明治時代にもここで大きな火事があったらしく、二十数名の娼妓がお亡くなりになったと記録に残ってます……」

女郎処刑

「そっかぁ、遊郭かぁ……その名残なんですかね、現在もこのホテルには違法の風俗店なんかが密集してたんでしょ?」

「みたいですね。まあ、はっきりした情報はまだわかりませんが、地元の警察に聞いた所によると、家出した未成年者を宿泊客に斡旋する悪質な業者が……」

「あっ、ちょと下島さんすみません、現場から中継が入りましたので……はいはい松浦君! 現場の様子教えて!」

「はい、現場の松浦です! つい先程、地元の消防署が記者会見を開きまして、火災の原因が放火である事が明らかになりました。火元はホテルの三階にある派遣型風俗店の事務所で、出火当時、この事務所には風俗店で働く女性従業員一名と、この会社の代表者ら三名がいました。出火する直前には、部屋から激しく口論する怒鳴り声が聞こえていたらしく、関係者の話しによりますと、この女性従業員は家出中の未成年者で、会社側とは以前から前借金による金銭トラブルがあったようです。尚、この女性従業員が放火したかどうかという詳しい情報はまだ入って来ておりませんが、情報が入り次第スタジオにお届けします!」

 智子の手からリモコンがボトッと落ちた。嘘でしょ? と呟きながら、画面に映る見覚えのある古い商店街を呆然と見つめる。不意にマンションの下からゴミ収集車のオルゴールの音が聞こえて来た。

「あぁ、松浦君よ! 現在までの被害者の人数や身元はわかってんのかい?」

 呆れ顔の司会者が、まさに『対岸の火事』といわんばかりの軽い口調で再び現場のレポーターに聞いた。

「はい、地元の消防署の発表によりますと、被害者の数は、現在わかっているだけでも五十名近くはいると言う事です。ホテル側の話しでは、宿泊客の数から見て、今後、恐らく百名以上の被害者が出るのではないかと予想しております。尚、現在、身元が判明している被害者は六名で、いずれも全員が死亡。そのうちの四名が家出中の未成年者だったという事です」

 智子のTシャツは嫌な汗でびっしょりと湿っていた。こんな嫌な汗を掻いたのは、二十年前のあの時以来だった。
 画面に映るあの忌々しい町の風景と、『家出中の未成年者』という二つの線が智子の頭の中で不吉に繋がった。
 いつの間にか、ゴミ収集車のオルゴールの音色は、遥か彼方から微かに聞こえていた。今日こそは出そうと思っていた生ゴミの袋が、バルコニーの隅で突風に煽られながら揺れていた。

 不自然な呼吸が智子の口から漏れた。唇を閉じていると窒息してしまいそうなくらい苦しくてたまらない。

(美鈴ちゃん美鈴ちゃん美鈴ちゃん美鈴ちゃん美鈴ちゃん美鈴ちゃん美鈴ちゃん美鈴ちゃん)

 何度もそう呟きながら、美鈴の携帯に電話を掛ける。

『お掛けになった電話番号は電波の届かない場所におられるか電源が入っていない為、掛かりません……。こちらはNTTドコモです。お掛けになった電話番号は……』

 今朝まで留守番電話になっていたのが、急に不通アナウンスに変わっていた。今まで美鈴が携帯の電源を切っていた事など一度もない。
 凄まじい胸騒ぎと寒気と吐き気が一気に智子に襲い掛かって来た。
 不通アナウンスを繰り返し聞きながら、叫び出したいくらいの恐怖に達した時、不意に不通アナウンスの背後で、『プルー……プップッ……プルー……プップッ……』という、キャッチホンの信号音が聞こえた。
 携帯のディスプレイには、登録されていない電話番号が表示されていた。携帯ではなく一般回線の電話番号だ。
 嫌な予感がした。出たくない……と泣き出しそうになりながらも、ふとその電話番号の市外局番が、あの町と同じ事に気付いた。

 智子は遂に泣き出した。今までこの二十年間一度も関わり合わなかった町。その町から一本の電話が掛かって来たのだ。
 きっとこの電話は、あの町の警察署か消防署からであろうと、智子は携帯のディスプレイを見つめたまま声を出して泣いた。
 智子の頭の中は、一瞬にして白一色の世界になった。
 テレビから聞こえて来る司会者の声も、携帯から聞こえて来るキャッチホンの信号音も、今の智子には完全に届いていなかった。
 そんな真っ白な世界で誰かが呼ぶ声が聞こえた。

「小菊……」

 智子は何かに取り憑かれたかのようにゆっくりと顔を上げた。
 テレビの画面には、炎に包まれるホテルをヘリコプターが上空から撮影する映像が流れていた。
 そんなホテルの最上階の角の部屋の窓に、ふと人影が映っているのが見えた。ヘリコプターで中継するレポーターも、スタジオの司会者も、その影に気付いていないのか、誰もその影には一切触れない。

「小菊……」

 再びその声が聞こえて来た。明らかにその声はテレビのスピーカーから聞こえていた。
 画面に映るホテルの窓が、智子の目にハッキリと映った。
 そこには吉村のお婆ぁさんがポツンと立っていた。
 吉村のお婆ぁさんは、まるで三途の川を渡る亡者から衣類を剥ぎ取る奪衣婆のような凄まじい形相だった。

おにばば

「いつまでも怨念地獄は続くでぇ……」

 電波障害のような雑音と共に、吉村のお婆ぁさんの声が再びテレビのスピーカーから聞こえた。
 その瞬間、西側の出窓に置いてあった金魚鉢からピチャンっと金魚が跳ねる音が聞こえた。
 その金魚は、美鈴がまだ幼稚園の頃、祭の縁日の金魚すくいで穫った一匹の金魚だった。
 智子はふと思った。
 いったい、あの金魚はいつまで生き続ける気なんだろう、と……。
 金魚は、まるで智子に何かを伝えようとしているかのように、金魚鉢の中を激しく泳ぎ回った。智子はそんな金魚を恐る恐る見つめながら、擦れた声で「美鈴ちゃん?」と聞いた。
 その瞬間、再び金魚はピチャンっと音を立てて飛び跳ねたのだった。

(金魚・完)



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