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 唇がガクガクと痙攣し、そこから荒い息と共に小さな唸り声が無意識に洩れた。今すぐここから逃げ出したいと思った。逃げ出さないと危険だと本気でそう思った。
 看護士は、智子を睨んだままお婆ぁちゃんの浴衣を整え始めた。看護士のその目からは、なぜか突然黒目が消えている。

看護婦

(逃げても無駄や。地獄の底まで追い込んだるからな……)

 遊郭の女将の声が鮮明に甦って来た。その恐怖のあまり、奥歯をギッと噛み締めながら震えていると、いつの間にか看護士の姿は消えていた。
 突然誰かに「おい」と肩を掴まれそうな気がして、いつまでも震えが止まらなかった。握りしめたベッドのパイプがガタガタと揺れる。
 早くここから逃げなくちゃ、と、身体を震わせたままゆっくりと顔を上げると、不意にベッドで寝ていたお婆ぁちゃんと目が合った。

「ひっ!」

 おもわず口内に空気が逆流した。
 愕然としたままお婆ぁちゃんを見つめ、握っていたベッドのパイプを激しく震わせた。
 お婆ぁちゃんは、一度ゆっくりと瞼を閉じ、そして再びパッと開くと、鹿のような目で智子をギロッと見つめた。

「銭は……おとろしいのぅ……」

 お婆ぁちゃんが呟いた。重度のアルツハイマー型認知症で意識もないと言われていたお婆ぁちゃんが、今、目の前の孫をギロッと見つめながらそう呟いた。

「お、お婆ぁちゃん……」

 智子はお婆ぁちゃんの手を握りしめた。その手はまるで氷の中に入れていたかのように冷たい。

「お婆ぁちゃん、智子よ。わかる?」

 智子はナースコールを押そうかどうしようかと悩みながらも、その冷たい手を両手で包み込んだ。

「銭は……銭はおとろしい……銭は怨念じゃ、返さなんだらどこまでもどこまでも追って来る……」

「…………」

「ワシも……ワシのお父ぅも……ワシの息子も……息子の娘も……」

 窓に映る大きな木が緑を風に靡かせた。サッシの隙間からザワザワザワっという音が洩れる。


「智子……死なせてくれ……銭に追われるのはもう嫌じゃ……」

「お、お婆ぁちゃん、何を言ってるのよ、しっかりして」

 両手に包んだ手を強く握ると、いきなり智子の背後から、

「死なせてやって頂戴な……」

 という、子供のような声が聞こえた。
「ひっ!」と肩を竦めながら慌てて振り向く。智子の背後には、隣りのベッドにちょこんと腰掛けた小さな老婆が、智子を見つめながらニタニタと笑っていたのだった。

 不意に、壁のスピーカーからピアノの音色が聞こえて来た。その曲をBGMに、面会時間の終わりを告げるアナウンスがボソボソと聞こえて来た。
 ニタニタと笑う老婆は、そのピアノの音色に合わせて小さな体を小刻みに揺らした。その曲は、ドビュッシーの『月の光』だった。

「みんなみんな早う死にたいんよ……でもな、みんな不義理しとるけぇ、なかなか死なせてもらえんのよ……」

 老婆は伸ばした両脚をスリスリと擦りながら呟いた。そんな老婆の右脚の小指も、お婆ぁちゃんと同じように根元から欠損していた。
 智子の全身に凄まじい汗が噴き出した。汗の玉が脇の下をダラダラと垂れていくのがむず痒いほどだった。
 老婆は自分の欠けた小指を見つめながら言葉を続けた。

「証文じゃ……証文のせいでワシらは死ぬ事もできず、こうやって血肉を腐らせながらも生き地獄を彷徨ってるんじゃ……」

 智子の脳裏に、女将が朱色の箪笥の引き出しから取り出した『身売証文』がふと浮かんだ。
 智子はガクガクと震える膝を必死に支えながら、「な、中村楼のですか……」と聞いた。

「そう。あの証文がある限り、足抜けしたワシらは死ぬ事も許されん……因果応報じゃ……その因果は娘や孫、そして曾孫にまで付いて回る……ほんに銭が生んだ怨念地獄じゃ……」

 老婆はそう呟くと、伸ばした足を擦る手を止め、ゆっくりと智子の顔を見上げた。

「早う、小菊はんを楽にしたってぇなぁ」

 小菊という名前を聞いた瞬間、震えていた膝から力が抜け、遂にベッドの脇にガクンっとしゃがみ込んでしまった。
 無意識に肩がブルブルと震え、しゃがんでいた尻が冷たいタイルの床にペタリと付いた。かろうじて握ったままだったベッドのパイプがカタカタと音を立てると、『あう……あう……』という情けない声が洩れた。
 そんな智子をベッドの上から見下ろす老婆は、柔らかい表情のまま頷き、そして呟いた。

「中村楼にある証文を燃やすんじゃ……あれが残ってる限り、あんたもあんたの娘もあんたの孫も、いつまでも怨念地獄は続く……」

 床にへたってしまった智子は、老婆を見上げながらゴクリと唾を飲み込んだ。
(証文を……燃やす……)
 奥歯をカチカチと鳴らしながら口内で復唱すると、不意に強烈な視線を感じた。
「はっ!」と顔を真正面に向けた。
 老婆のベッドの下に何かが踞っていた。
「うっ!」と息を詰まらせながら薄暗いベッドの下に目を凝らす。
 そこには赤い着物を着た白塗りの女がジッと智子を見つめていた。

目無し女郎

 しかも彼女だけではなかった。なんと、全てのベッドの下には赤い着物を着た白塗りの女が踞っており、彼女達が一斉に眼球を見開いては智子を見つめていたのだ。

「智ちゃん……堪忍な……」

 関西訛りの弱々しい声が、智子のすぐ耳元で聞こえた。それは声だけでなく、啜り泣く息づかいさえも生々しく聞こえた。
 智子は後を振り向く事ができなかった。お婆ぁちゃんのベッドの下で囁いているのは、見なくてもわかった。見たくもなかった。見たらたちまち気が狂ってしまうと予想できた。
 智子は、これでもかというくらいに強く目を瞑り、握っていたパイプに寄り添いながらゆっくりと立ち上がった。
 いくら目を綴じていても、無数の眼球が脳裏に浮かび上がり、生々しい啜り泣きが耳から離れなかった。
 目を閉じたままヨタヨタと隣りのベッドへ進み、ベッドのパイプを掴んだ。まるでリハビリ患者のように、一歩一歩ゆっくりと進みながら必死で病室の出口へ向かう。

『五時です五時です五時です五時です五時です五時です五時です』

 スピーカーから流れる録音テープが、狂ったように同じ言葉を何度も繰り返す。
 叫び出したいのを必死に堪えながら廊下に飛び出すと、スピーカーから流れていたドビュッシーの『月の光』が、いきなり大音量で鳴り出した。

「うわ、うわ、うわ、うわ」

 智子は遂に走り出した。と、同時に背後から何者かが追って来るような気配を感じ、凄まじい寒気が背中一面を襲った。

びょういんろうか

 静まり返った廊下に、狂ったような大音量のピアノの音と、智子のサンダルの音だけが響いた。
 階段の手前でゴムの手摺を強く握った。手摺のゴムをピピピピッと鳴らしながら階段を滑るように駆け下りる。
 階段の中段に差し掛かると、巨大な一階ロビーの奥にある受付カウンターから智子をギッと睨んでいる看護士の姿が見えた。
 焦る気持ちを、あと少し、あと少し、と冷静に段数を数えながら落ち着かせる。すると、五十メートルほど向こうのカウンターにいた看護士がスっと立ち上がるのが視野に映った。
 身の毛がよだつ程に焦った。しかし、ここで転ぶわけにはいかないと、あと四段、あと三段、と冷静に足を進めた。そして遂に息を飲みながらも最後の一段を踏みしめた時、いきなり目の前に看護士の顔がヌッと現れた。

「大槻さん延滞している入院費は?」

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 智子は狂ったように叫びながら、目の前に迫る看護士を突き飛ばした。が、しかしその感触は無く、智子は勢い余って床に転倒した。
 クリーム色のクッションフロアに顔面を激しく叩き付けた。ベシャっという鈍い音が額の奥で聞こえたが、しかし不思議と痛みを感じなかった。
 転倒した勢いのまま、床を両脚でバタバタと蹴りながら立ち上がった。おびただしい血が顔のどこかから流れていた。そんな白いクッションフロアの床は、死体を引きずった跡が残る殺人現場のような惨状になっていた。

 ゆっくりと開く自動ドアを必死に押し開けながら外に飛び出した。
 夕暮れ時の生温かい風が智子を包み込んだ。大通りから聞こえて来る大型トラックのエンジン音と、遠くで輝く家電量販店の大きな看板が妙に頼もしく感じた。
 挫いたかも知れない右脚を引きずりながら、老人ホームの駐車場から飛び出した。
 薄暗い歩道をヨタヨタしながら、とにかく老人ホームから遠離ろうと必死で足を速めた。部活帰りの高校生が、擦れ違う智子の顔を見てキキキッと自転車のブレーキを鳴らした。

「大丈夫ですか?」

 背後から高校生の声が聞こえた。
 ソッと振り向くと、プーマのスポーツバッグを自転車のカゴに入れた高校生が驚いた表情で智子を見つめていた。

「大丈夫です、ありがとう」

 と、呟いた瞬間、高校生の背後に聳える老人ホームの窓に、ズラリと並んだ白塗りの顔が、こっちをジッと見据えているのが見えたのだった。

(つづく)

9話へ続く→

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