金魚5─ 銭のカルマ ─
2012/02/18 Sat 14:20
智子が連れて行かれたのは、一階の吉村のお婆ちゃんの部屋がある場所だった。
時代劇に出て来そうな家具と大きな火鉢。そんな火鉢に手をかざしながら座っている女の背後には、墨で書かれた『般若心経』が、壁に滲みながら不気味に浮かび上がっていた。
女の前に立たされた。まるで遠山の金さんの前に連行されてきた罪人のようだった。小男が畳の上に座らせようとすると、女はジッと智子を睨んだまま「畳を裏返しにしぃな」と呟いた。
智子を犯した男がそそくさと畳をはぐり、畳の裏側を天井に向けた。その時その男の顔を始めてみた。男の顔は猪そのものだった。
裏返しにされた畳の上に正座させられた。真っ黒にくすんだ畳の裏はじっとりと湿り、わさびのようにツーンとしたカビ臭さが漂っていた。
「あんた、さっき私は小菊やない言うとったなぁ」
女は火鉢の中からくすぶった炭を摘まみ上げると、長いキセルの先にそれを押し当てながらスパスパと吸った。智子がコクンと頷くと、女の真っ赤な唇から煙がモワッと溢れた。
女は智子を睨みながら「じゃあおまえは誰や」と笑った。
「……私は大槻智子です……この真上に住んでいる……」と言い掛け、しかしここでそんな事を話しても信用してくれるはずがないと思い、言葉を呑んだ。
窓の外には墓石が並んでいた。この風景は昔から変わっていないんだ、と、ふと思うと、もう出勤の時間は過ぎてしまっているのではないかと急に焦った。
そんな智子を見つめながら、女は窓際に置いてあった朱色の箪笥に手を伸ばした。中から和紙でできた台帳のような物を取り出す。
女はキセルをスパスパと吸いながらそれをペシャリペシャリと捲り始めた。捲られていく紙の最初には『身売証文』と滲んだ墨字で書かれており、その一枚一枚には『桜木』、『霧絵』、『紫』、『梅』といった、女郎の名前らしき文字が見えた。
そんな女の指がピタリと止まった。
「あんたの本名は『サト』やなぁ……トモコ言う名前とちゃうでぇ……」
女がニヤリと笑うと、部屋の入口に控えていた男達もフンっと鼻で笑った。
「あんた、下谷の小倅と駆け落ちしとる最中、あのバカ息子になんぞデキの悪い『狂い薬』でも嗅がされたんとちゃうかぁ」
女の言葉に男達は笑い出し、小男などは、「バカ息子、バカ息子」と嬉しそうに膝を叩きながら笑い転げていた。
「違います! 私は大槻智子です! 本当に大槻智子なんです!」
そう叫んだ瞬間、女が長いキセルを智子の頭目掛けて投げつけた。智子の頭を掠めたキセルは、そのまま背後の壁に当たり、金属部分を「コッ!」と鳴らした。
「じゃあこれは何やねん! よう見てみい、おまえとこのおっさんの名前も拇印もあるんじゃボケ!」
そう叫びながらドドっと智子に向かって走って来た女は、いきなり智子の髪を鷲掴みにすると、天井を仰がせた智子の顔にその証文を突き付けた。
「見てみぃ! おまえのこの首のホクロ! ここに書いてある『黒子図』とおんなじ場所にあるやないけ!」
女は智子の頬を平手で叩いた。智子は何発も何発も叩かれながらも必死にその証文を見た。なんとその証文の日付には『大正三年』と書かれていたのであった。
智子は散々頬を叩かれた挙げ句、荒縄が食い込む腹を蹴飛ばされては腐った板の上に転がった。目の前にカビ臭い畳の裏板が迫った。よく見ると、板にはムカデのような小さな蟲が何十匹もウヨウヨと蠢いていた。
「テツオ! 馬喰を呼んできぃや!」
女が叫ぶと、テツオと呼ばれる小男は首を傾げながらムクリと起き上がり、「馬喰? 女衒とちゃいますのん?」と鼻の詰まった声で聞いた。
「あかん。この女は足抜け二度目や。こんな汚れを他所の家に流し売りなんてできるかいな」
「ほ、ほんなら女将はん、この女は牛や馬と一緒に売っぱらってしまうんでっか?」
「そうや。鬼畜の餌にしたる。こんな出来の悪いガキは鬼畜共に死ぬ程犯されたらええんや。そんで牛や馬と一緒に首も足も臓もバラバラにされて、喰われてしまえばええんや」
女は猛禽類のような声を上げて高笑いすると、そのまま元の場所にドスンっと座り、火鉢の横に置いてあった箱の中から新しいキセルを取り出した。
そんな女の目には恍惚とした光が輝いていた。その目は、あの夜、路地で主任の男根をしゃぶる智子を、格子の向こう側から見つめていた吉村の婆さんの目と同じ輝きをしていた。
「女将はん……馬喰に売るのはちょっと勿体無いでっしゃろ……ワシら部落のモンで金出し合いますさかい、小菊をワシらに売ってもらえしまへんやろか……」
智子を犯した猪のような男が、恐る恐る女に向かって呟いた。男の隣りに控えていた小男達も、目をギラギラと輝かせながらうんうんと頷いている。
「あかん。小菊は御法度を二度も犯したんや。そんな輩を野放しにしといたら中村の看板に傷が付くわ。まぁええから、早よ朝鮮人の馬喰をここに呼んできぃ」
女はそう言いながら、キセルをスパスパと吸い、恍惚とした笑顔のまま鼻から煙を出したのだった。
朝鮮人。馬喰。首も足も臓もバラバラ。そんな言葉が智子の頭の中をリピートした。これからいったいどんな酷い目に遭わされるのか想像もつかなかったが、猛烈な恐怖が智子の胸に襲い掛かり、まるで喘息の発作のようにハァハァと荒い息が不規則に洩れ、前歯がカチカチと鳴る程に脅えた。

「なんや小菊。二回も鉄砲しといてからに怖いんか」
女は唇の端をニヤリと歪ましながら智子の顔を覗き込んだ。
「お願いします……許して下さい……」
智子は、いったい何を許して貰うのかと自分でもわからなくなりながら、それでもとにかく土下座をしながら必死に詫びを入れた。
「じゃあ自分が小菊やという事、認めるんやな?」
「認めます。私は小菊です。だから許して下さい……」
もうどうでも良かった。これ以上の恐ろしい所に連れて行かれるくらいなら、もう小菊でもなんでもいいと投げ遣りになっていた。
「そうか。ほなら、馬喰は許したるわ。ただし、ケジメだけは付けてもらうで」
女はそう言いながら智子の前でしゃがみ、玄関にいた小男にノコギリを持って来るようにと指示を出した。
ノコギリ……。その言葉が激しく鼓動する智子の心臓を鷲掴みにした。カラカラに乾いた喉に無理矢理唾を流し込みながら、智子は女の顔を見上げた。そして「ノコギリ……」と声に出して呟いた。
「そうや。ノコギリや。鉄砲一回は情けで許したる。せやけど二回の鉄砲は許すわけにはいかん。おまえも女郎の端くれや、ここの掟はわかっとるはずや」
「ノ、ノコギリでなにを……」
カラカラに乾いた喉から出て来たその声は、まるで小鳥のさえずりだった。そんな弱々しい声と共に、包丁程の小さなノコギリを手にした小男が部屋に戻って来た。
そのノコギリを受け取った女は、そのギザギザとした刃を指先でツンツンしながら智子をギッと見据えた。

「エンコや。エンコ弾いてもらうでぇ」
「エ、エンコってなんですか!」
「エンコゆうたら指やないけぇ。アホちゃうかワレ。前にワレが鉄砲した時、ちゃんと教えたったやないけえ、今度逃げたらコレやぞ言うてな」
女がそう言いながら突き出した左手の小指は、第二関節でスパッと千切れていた。
智子の思考回路は止まった。真っ白な頭の中では、なぜかミュージックフェアのオープニング曲が静かに流れている。
「まあ、おまえもここに来てまだ一週間や。これからどんどん稼いでもらわなあかんし、トンボ切りの不具者じゃ客も気味悪がるやろ……」
そう言いながら女は、荒縄が食い込む智子の足首を冷たい手で掴んだ。
「今回は特別に足の小指で許したるわ。その代わり三回目の鉄砲は、掟通り目ぇを潰すからよう覚えときや」
その言葉を聞いた瞬間、智子の脳裏に、潰れた両目をボンボンに腫らしながら『お母さん、ウチの草履知らへん?』と廊下を歩き回っていた盲目の女の姿が甦って来た。
小男がニヤニヤ笑いながら智子の右脚を押え、猪のような顔をした男が野球のグローブのような手で左脚を押さえた。
女の前で股をM字に開かされた。奥歯がガチガチと鈍い音をたて、滝のような汗が額から流れ落ちる。全身がガクガクと震え出すと、誰かが智子を背後から羽交い締めにし、その震えを鎮圧させようとした。
女が黄金色に輝くノコギリの刃をギラリと鈍く光らせた。そしてそれを智子の左脚の小指にぴたりと押しあてた。
「ゆ、ゆ、許して……」
必死に声を搾り出すと、背後の男が智子の口に手拭を押し付けた。その酷く汚れた手拭は、子供の頃、遠足で行った牧場の牛糞の臭いが染み付いていた。
「口は塞がんでもええ。見せしめや。こいつの泣き叫ぶ声を他のやつらに聞かせたるんや」
女がそうニヤリと笑った瞬間、智子の足下でギギッという擦れた音が響いた。
口の手拭を外された智子がギョッとしながら視線を落とす。
真っ黒に汚れた自分の足。その足の先の小指は、猫の爪で引っ掻かれたように皮が擦り切れていた。
「動くなや……動くと全部の指、切ってまうでぇ……」
女はそう笑いながらノコギリを持つ手を更に動かした。
ギシギシギシギシっという今までに聞いた事のない不気味な音が智子の精神を揺さぶった。
ギザギザの切り口からジワッと赤い血が溢れ、腐った黒い板を黒く染める。しかし、興奮しているせいか不思議に全く痛くなかった。
「痛ないやろ。ふふふふ……ノコギリはな、極道がエンコ弾く時に使う出刃と違うて最初は全然痛ないねん。これが骨に達して来るとな、脳味噌に針刺されるみたいな激痛が走んねん……女郎のケジメはな、極道のケジメみたいに一瞬で終わる程、甘うない。長時間、じっくりと痛みを味おうて、その名の通り骨身に沁みてもらわなな……」
ギシギシギシっという音の切れ目切れ目に女が呟いた。足下は既に血の海で、時折ピタピタという不気味な血の音も聞こえて来る。
「ほぅら、そろそろ骨やでぇ」
嬉しそうな女の声と共に、いきなりツキン!という鋭い痛みが全身に走った。それはまるで、奥歯で銀紙を噛み締めた時のような鋭い痛みだった。
ギシギシと言う音がギリギリという音に変わって来た。今にも目玉が飛び出しそうな勢いで瞼をひん剥きながら、、切られる小指を必死に見下ろす。
真っ赤な血の海の中に、ミンチのような細かい肉片がボロボロと溢れていた。ノコギリが激しく動く小指は、肉と皮がズルリと剥けては真っ白な骨を晒していた。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
突然凄まじい痛みに襲われ、遂に智子は狂ったような悲鳴をあげた。ノコギリの刃が擦れる度に骨盤が響き、その響きが奥歯や頭蓋骨にまで達しては猛烈な頭痛を引き起こした。
「糞、洩らしよったわ」
右脚を押えていた小男が、M字に開かれた股間を覗き込みながら下品に笑った。
女はケラケラと高笑いしながらノコギリのスピードを速めた。智子の意識は朦朧とし、気が付くと、叫ぶ口から反吐をダラダラと垂らしていた。
「切れるぞ、切れるぞ」
目玉をギラギラと輝かせる女が、ノコギリを激しく動かしながら呟く。
智子が「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」と、反吐を吐きながら叫んだ瞬間、ノコギリがバスン!という鈍い音を立て、今までのギシギシ音はピタリと止まった。
「見てみい……やや子のチンコみたいな可愛い小指や……」
女は狐憑きのように目を吊り上げながら智子の顔を覗き込んだ。そして意識が朦朧とする智子の目の前に、千切れた小指を突き付けながらケラケラと笑った。
痛みと恐怖と吐き気に襲われながら、智子は全身の力をガックリと抜いた。
そんな智子を見つめながら、女はカサカサに乾いた唇をペロリと舐め、摘んでいた小指を畳に転がした。
「ほな、この調子で右脚の小指いこか……」
女が血塗られた手で智子の右足首を握りしめた。女のその吊り上がった目を見た瞬間、智子の意識はスーッと遠離っていった。
「逃げても無駄や。地獄の底まで追い込んだるからな……」
擦れゆく意識の中、女の声が響いていた。
そんな智子の目に最後に映ったのは、荒んだ墓場を背景に金魚鉢の中で優雅に泳ぐ、金魚の長い尾びれだった。
(つづく)
6話へ続く→
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時代劇に出て来そうな家具と大きな火鉢。そんな火鉢に手をかざしながら座っている女の背後には、墨で書かれた『般若心経』が、壁に滲みながら不気味に浮かび上がっていた。
女の前に立たされた。まるで遠山の金さんの前に連行されてきた罪人のようだった。小男が畳の上に座らせようとすると、女はジッと智子を睨んだまま「畳を裏返しにしぃな」と呟いた。
智子を犯した男がそそくさと畳をはぐり、畳の裏側を天井に向けた。その時その男の顔を始めてみた。男の顔は猪そのものだった。
裏返しにされた畳の上に正座させられた。真っ黒にくすんだ畳の裏はじっとりと湿り、わさびのようにツーンとしたカビ臭さが漂っていた。
「あんた、さっき私は小菊やない言うとったなぁ」
女は火鉢の中からくすぶった炭を摘まみ上げると、長いキセルの先にそれを押し当てながらスパスパと吸った。智子がコクンと頷くと、女の真っ赤な唇から煙がモワッと溢れた。
女は智子を睨みながら「じゃあおまえは誰や」と笑った。
「……私は大槻智子です……この真上に住んでいる……」と言い掛け、しかしここでそんな事を話しても信用してくれるはずがないと思い、言葉を呑んだ。
窓の外には墓石が並んでいた。この風景は昔から変わっていないんだ、と、ふと思うと、もう出勤の時間は過ぎてしまっているのではないかと急に焦った。
そんな智子を見つめながら、女は窓際に置いてあった朱色の箪笥に手を伸ばした。中から和紙でできた台帳のような物を取り出す。
女はキセルをスパスパと吸いながらそれをペシャリペシャリと捲り始めた。捲られていく紙の最初には『身売証文』と滲んだ墨字で書かれており、その一枚一枚には『桜木』、『霧絵』、『紫』、『梅』といった、女郎の名前らしき文字が見えた。
そんな女の指がピタリと止まった。
「あんたの本名は『サト』やなぁ……トモコ言う名前とちゃうでぇ……」
女がニヤリと笑うと、部屋の入口に控えていた男達もフンっと鼻で笑った。
「あんた、下谷の小倅と駆け落ちしとる最中、あのバカ息子になんぞデキの悪い『狂い薬』でも嗅がされたんとちゃうかぁ」
女の言葉に男達は笑い出し、小男などは、「バカ息子、バカ息子」と嬉しそうに膝を叩きながら笑い転げていた。
「違います! 私は大槻智子です! 本当に大槻智子なんです!」
そう叫んだ瞬間、女が長いキセルを智子の頭目掛けて投げつけた。智子の頭を掠めたキセルは、そのまま背後の壁に当たり、金属部分を「コッ!」と鳴らした。
「じゃあこれは何やねん! よう見てみい、おまえとこのおっさんの名前も拇印もあるんじゃボケ!」
そう叫びながらドドっと智子に向かって走って来た女は、いきなり智子の髪を鷲掴みにすると、天井を仰がせた智子の顔にその証文を突き付けた。
「見てみぃ! おまえのこの首のホクロ! ここに書いてある『黒子図』とおんなじ場所にあるやないけ!」
女は智子の頬を平手で叩いた。智子は何発も何発も叩かれながらも必死にその証文を見た。なんとその証文の日付には『大正三年』と書かれていたのであった。
智子は散々頬を叩かれた挙げ句、荒縄が食い込む腹を蹴飛ばされては腐った板の上に転がった。目の前にカビ臭い畳の裏板が迫った。よく見ると、板にはムカデのような小さな蟲が何十匹もウヨウヨと蠢いていた。
「テツオ! 馬喰を呼んできぃや!」
女が叫ぶと、テツオと呼ばれる小男は首を傾げながらムクリと起き上がり、「馬喰? 女衒とちゃいますのん?」と鼻の詰まった声で聞いた。
「あかん。この女は足抜け二度目や。こんな汚れを他所の家に流し売りなんてできるかいな」
「ほ、ほんなら女将はん、この女は牛や馬と一緒に売っぱらってしまうんでっか?」
「そうや。鬼畜の餌にしたる。こんな出来の悪いガキは鬼畜共に死ぬ程犯されたらええんや。そんで牛や馬と一緒に首も足も臓もバラバラにされて、喰われてしまえばええんや」
女は猛禽類のような声を上げて高笑いすると、そのまま元の場所にドスンっと座り、火鉢の横に置いてあった箱の中から新しいキセルを取り出した。
そんな女の目には恍惚とした光が輝いていた。その目は、あの夜、路地で主任の男根をしゃぶる智子を、格子の向こう側から見つめていた吉村の婆さんの目と同じ輝きをしていた。
「女将はん……馬喰に売るのはちょっと勿体無いでっしゃろ……ワシら部落のモンで金出し合いますさかい、小菊をワシらに売ってもらえしまへんやろか……」
智子を犯した猪のような男が、恐る恐る女に向かって呟いた。男の隣りに控えていた小男達も、目をギラギラと輝かせながらうんうんと頷いている。
「あかん。小菊は御法度を二度も犯したんや。そんな輩を野放しにしといたら中村の看板に傷が付くわ。まぁええから、早よ朝鮮人の馬喰をここに呼んできぃ」
女はそう言いながら、キセルをスパスパと吸い、恍惚とした笑顔のまま鼻から煙を出したのだった。
朝鮮人。馬喰。首も足も臓もバラバラ。そんな言葉が智子の頭の中をリピートした。これからいったいどんな酷い目に遭わされるのか想像もつかなかったが、猛烈な恐怖が智子の胸に襲い掛かり、まるで喘息の発作のようにハァハァと荒い息が不規則に洩れ、前歯がカチカチと鳴る程に脅えた。

「なんや小菊。二回も鉄砲しといてからに怖いんか」
女は唇の端をニヤリと歪ましながら智子の顔を覗き込んだ。
「お願いします……許して下さい……」
智子は、いったい何を許して貰うのかと自分でもわからなくなりながら、それでもとにかく土下座をしながら必死に詫びを入れた。
「じゃあ自分が小菊やという事、認めるんやな?」
「認めます。私は小菊です。だから許して下さい……」
もうどうでも良かった。これ以上の恐ろしい所に連れて行かれるくらいなら、もう小菊でもなんでもいいと投げ遣りになっていた。
「そうか。ほなら、馬喰は許したるわ。ただし、ケジメだけは付けてもらうで」
女はそう言いながら智子の前でしゃがみ、玄関にいた小男にノコギリを持って来るようにと指示を出した。
ノコギリ……。その言葉が激しく鼓動する智子の心臓を鷲掴みにした。カラカラに乾いた喉に無理矢理唾を流し込みながら、智子は女の顔を見上げた。そして「ノコギリ……」と声に出して呟いた。
「そうや。ノコギリや。鉄砲一回は情けで許したる。せやけど二回の鉄砲は許すわけにはいかん。おまえも女郎の端くれや、ここの掟はわかっとるはずや」
「ノ、ノコギリでなにを……」
カラカラに乾いた喉から出て来たその声は、まるで小鳥のさえずりだった。そんな弱々しい声と共に、包丁程の小さなノコギリを手にした小男が部屋に戻って来た。
そのノコギリを受け取った女は、そのギザギザとした刃を指先でツンツンしながら智子をギッと見据えた。

「エンコや。エンコ弾いてもらうでぇ」
「エ、エンコってなんですか!」
「エンコゆうたら指やないけぇ。アホちゃうかワレ。前にワレが鉄砲した時、ちゃんと教えたったやないけえ、今度逃げたらコレやぞ言うてな」
女がそう言いながら突き出した左手の小指は、第二関節でスパッと千切れていた。
智子の思考回路は止まった。真っ白な頭の中では、なぜかミュージックフェアのオープニング曲が静かに流れている。
「まあ、おまえもここに来てまだ一週間や。これからどんどん稼いでもらわなあかんし、トンボ切りの不具者じゃ客も気味悪がるやろ……」
そう言いながら女は、荒縄が食い込む智子の足首を冷たい手で掴んだ。
「今回は特別に足の小指で許したるわ。その代わり三回目の鉄砲は、掟通り目ぇを潰すからよう覚えときや」
その言葉を聞いた瞬間、智子の脳裏に、潰れた両目をボンボンに腫らしながら『お母さん、ウチの草履知らへん?』と廊下を歩き回っていた盲目の女の姿が甦って来た。
小男がニヤニヤ笑いながら智子の右脚を押え、猪のような顔をした男が野球のグローブのような手で左脚を押さえた。
女の前で股をM字に開かされた。奥歯がガチガチと鈍い音をたて、滝のような汗が額から流れ落ちる。全身がガクガクと震え出すと、誰かが智子を背後から羽交い締めにし、その震えを鎮圧させようとした。
女が黄金色に輝くノコギリの刃をギラリと鈍く光らせた。そしてそれを智子の左脚の小指にぴたりと押しあてた。
「ゆ、ゆ、許して……」
必死に声を搾り出すと、背後の男が智子の口に手拭を押し付けた。その酷く汚れた手拭は、子供の頃、遠足で行った牧場の牛糞の臭いが染み付いていた。
「口は塞がんでもええ。見せしめや。こいつの泣き叫ぶ声を他のやつらに聞かせたるんや」
女がそうニヤリと笑った瞬間、智子の足下でギギッという擦れた音が響いた。
口の手拭を外された智子がギョッとしながら視線を落とす。
真っ黒に汚れた自分の足。その足の先の小指は、猫の爪で引っ掻かれたように皮が擦り切れていた。
「動くなや……動くと全部の指、切ってまうでぇ……」
女はそう笑いながらノコギリを持つ手を更に動かした。
ギシギシギシギシっという今までに聞いた事のない不気味な音が智子の精神を揺さぶった。
ギザギザの切り口からジワッと赤い血が溢れ、腐った黒い板を黒く染める。しかし、興奮しているせいか不思議に全く痛くなかった。
「痛ないやろ。ふふふふ……ノコギリはな、極道がエンコ弾く時に使う出刃と違うて最初は全然痛ないねん。これが骨に達して来るとな、脳味噌に針刺されるみたいな激痛が走んねん……女郎のケジメはな、極道のケジメみたいに一瞬で終わる程、甘うない。長時間、じっくりと痛みを味おうて、その名の通り骨身に沁みてもらわなな……」
ギシギシギシっという音の切れ目切れ目に女が呟いた。足下は既に血の海で、時折ピタピタという不気味な血の音も聞こえて来る。
「ほぅら、そろそろ骨やでぇ」
嬉しそうな女の声と共に、いきなりツキン!という鋭い痛みが全身に走った。それはまるで、奥歯で銀紙を噛み締めた時のような鋭い痛みだった。
ギシギシと言う音がギリギリという音に変わって来た。今にも目玉が飛び出しそうな勢いで瞼をひん剥きながら、、切られる小指を必死に見下ろす。
真っ赤な血の海の中に、ミンチのような細かい肉片がボロボロと溢れていた。ノコギリが激しく動く小指は、肉と皮がズルリと剥けては真っ白な骨を晒していた。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
突然凄まじい痛みに襲われ、遂に智子は狂ったような悲鳴をあげた。ノコギリの刃が擦れる度に骨盤が響き、その響きが奥歯や頭蓋骨にまで達しては猛烈な頭痛を引き起こした。
「糞、洩らしよったわ」
右脚を押えていた小男が、M字に開かれた股間を覗き込みながら下品に笑った。
女はケラケラと高笑いしながらノコギリのスピードを速めた。智子の意識は朦朧とし、気が付くと、叫ぶ口から反吐をダラダラと垂らしていた。
「切れるぞ、切れるぞ」
目玉をギラギラと輝かせる女が、ノコギリを激しく動かしながら呟く。
智子が「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」と、反吐を吐きながら叫んだ瞬間、ノコギリがバスン!という鈍い音を立て、今までのギシギシ音はピタリと止まった。
「見てみい……やや子のチンコみたいな可愛い小指や……」
女は狐憑きのように目を吊り上げながら智子の顔を覗き込んだ。そして意識が朦朧とする智子の目の前に、千切れた小指を突き付けながらケラケラと笑った。
痛みと恐怖と吐き気に襲われながら、智子は全身の力をガックリと抜いた。
そんな智子を見つめながら、女はカサカサに乾いた唇をペロリと舐め、摘んでいた小指を畳に転がした。
「ほな、この調子で右脚の小指いこか……」
女が血塗られた手で智子の右足首を握りしめた。女のその吊り上がった目を見た瞬間、智子の意識はスーッと遠離っていった。
「逃げても無駄や。地獄の底まで追い込んだるからな……」
擦れゆく意識の中、女の声が響いていた。
そんな智子の目に最後に映ったのは、荒んだ墓場を背景に金魚鉢の中で優雅に泳ぐ、金魚の長い尾びれだった。
(つづく)
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