金魚2─ 金魚の餌 ─
2012/02/18 Sat 14:20
それはどう見ても廃墟だった。
いつ建てられたのか築不明らしく、不動産屋の親父は、なぜかやたらに「戦前の建物や」と自慢げに笑っていた。
玄関の壁にはタイルが貼られていた。屋根には瓦が敷き詰められ、その瓦屋根にある鬼瓦には、このアパートの屋号である『中村』という文字が堂々と彫り込まれていた。

外観は古い昭和の銭湯を彷彿させる迫力だったが、しかし、中はスキー場によくありがちな古い民宿のように侘しかった。
やたらとだだっ広い玄関。アパート内は土足厳禁で、ボロボロに朽ち果てた下駄箱は、埃だらけの蜘蛛の巣と、そこにぶら下がる乾涸びた蛾の死骸に占領されていた。
細い廊下には何故か赤いカーペットが敷かれていた。歩く度にギシギシと廊下が鳴り、荒れ果てた中庭の薄っぺらい窓ガラスがガタガタと揺れた。
「ここは旅館か何かだったんですか?」
親父の後に続きながら智子が聞いた。親父は人一人がやっとの狭い階段を窮屈そうに上りながら、「みたいやな」と人事のように呟いた。
トイレ共同、風呂は無し。二畳の台所と六畳の一間、そして窓を開けると裏は草木が鬱蒼と茂る墓場だった。
さすがにこれだけの悪条件が揃うと、保証人がいないという自分の立場も忘れて露骨に嫌な顔をしてしまった。
「ボロやけど、なかなかしっかりした建物やで、うん……」
親父は悪びれる事もなく、真っ黒に汚れた柱をポンポンと叩きながら呟いた。そんな親父は、天井の隅の板が破れているのをジッと見つめたままだった。
「まぁ、あれや、他の物件も似たような物件やし、取りあえずって事で、ここに決めたらどうや?」
親父はそう笑いながら、「今時、家賃八千円ってのは奇跡やでぇ」と、またしても破れた天井を見上げていた。
確かに、今の智子には家賃が八千円というのはありがたかった。寮を出る時に意味不明な修理代と清掃費を踏んだくられた智子には、このアパートの礼金敷金を払うだけで精一杯だったのだ。
「それじゃあ、この部屋に決めます。どうか保証人の方は宜しくお願いします……」
そう言って頭を下げると、親父は「うん、それがええ、うん」と何度も頷き、古い畳をミシミシと踏みしめながらそそくさと玄関へ向かった。そしてギィギィとうるさいドアを開けながら、「それと……」と足を止めると、いきなり背広の内ポケットから蛇革の財布を取り出し、中から一万円札を三枚取り出した。
「あんた、引っ越しの金、持ってないんやろ。これで運送屋に頼みぃな」
「で、でも」と智子が焦ると、親父は「ええよ、ええよ」と笑いながら三万円を智子に突き付けて来た。
「ここの礼金敷金の二万円とこの三万円。合わせて五万円、貸しといてやるわ。返済はそのうちちょこちょこと返してってくれればええし。ほれ、遠慮せずに受け取りぃな」
そんな親父の温かい笑顔に、不意に智子の目がジワっと熱くなった。世の中にはこんなに優しい人がいたんだ、と思うと、涙が頬にツルンっと零れ落ち、唇にほのかな塩っぱさが広がったのだった。
しかしその夜、やっぱり世の中には悪い人しかいなかったという現実を思い知らされた。
夜の九時を過ぎた頃、脚立とカナヅチと小さなベニヤ板を手にした親父がいきなり部屋にやって来た。
引っ越し疲れでウトウトとしていた智子に、「天井の穴がどうも気になってな」と言いながら、ズカズカと部屋に上がり込んできたのだ。
天井にベニヤ板を打ち付ける音がゴンゴンゴンっと響いた。こんな時間にカナヅチの音を立ててお隣さんに迷惑が掛からないかとヒヤヒヤしていると、「このアパートには、このすぐ真下にボケた婆ぁさんが住んどるだけやし、心配せんでええよ」と、親父は再びカナヅチの音を激しく響かせた。
真っ黒に汚れた天井の隅に真新しいベニヤ板が打ち付けられた。それはまるで公園の隅に建てられているホームレスの小屋のような侘しい雰囲気を漂わせていた。
「よしゃっ」と言いながら脚立を下りると、「これですきま風も入れへんで」と親父は自慢げに微笑んだ。
そんな親父に「こんな夜分にありがとうございました」と頭を下げた瞬間、いきなり目の前がグラグラッと激しく揺れた。
何が何だかわからず、慌てて「えっ?」と顔をあげると、智子の目の前に親父の脂ぎった顔が迫っていた。
「ワシが面倒見てやるから、な、もう金の事は心配せんでもええから、な、な」
真っ赤な顔をした親父は、豚が餌を漁るような勢いで智子の首筋に顔を埋めた。
「いやです!」と叫んだ瞬間、床に押し倒された。ドン!という激しい音と共に、薄い窓ガラスが一斉にザワザワと揺れた。
もの凄い力で顔を畳に押し付けられた。鼻が押し潰されてしまうのではないかという恐怖が智子を襲った。無我夢中で顔を横に向けると、いつの間にかジーンズが脱がされていた。
「地味なパンツやなぁ」
デブ独特のノロマな声が頭上から聞こえ、同時にハァハァという荒い呼吸と共にパンツをツルンっとズリ下げられた。
親父は智子の身体を畳に押し付けながら、剥き出された智子の尻に顔を埋めた。
「いやぁぁぁ!」と叫びながら両脚をバタバタさせると、突然膣に生温かい感触が広がり、まるで散歩後の大型犬が水を飲んでいるような音が部屋に谺した。
親父は智子の膣を唾液でたっぷりと濡らすと、暴れる智子をそのまま羽交い締めにし、ニヤニヤと笑顔を浮かべながら背後から男根を突き刺して来た。
強烈な痛みが智子の脳を刺激した。それはまるで一枚刃のカミソリを膣に出し入れされているような鋭い痛みだった。
智子は歯を食いしばりながら泣いた。そんな智子を背後から抱きしめながら、親父は智子の耳元に囁いた。
「顔は地味やけど身体はええわ……おっぱいも尻も肉付きがええし、それにこの穴の具合は……最高や……」
タバコ臭い親父の息が、智子のうなじを何度も通り過ぎて行った。
そう屈辱的に囁かれる度に、智子の脳裏にお父さんとお母さんの青い顔が浮かんで来た。
「お母さん……」
古畳に顔を押し付けられながらそう呟いた瞬間、実家のガレージの奥でぶら下がっていたお母さんの目がいきなりパッと開いた。
「智ちゃん……ごめんね……」
青い顔をしたお母さんが口を動かさずしてそう智子に語りかけると、カッと見開いた目からドス黒い涙をドロリと流した。それと同時に、智子の膣の奥にもドロリとした生温かい感触が広がったのだった。
逃げるようにして親父が部屋を出て行くと、畳に踞ったままの智子は精液が垂れる尻を出したまま激しく泣いた。それはレイプされた事に悔しくて泣いたのではなく、お母さんの悲しそうな目が頭から離れなくなってしまったため絶叫していたのだ。
滝のように流れる涙が、頬を伝って畳に染み込んだ。涙で湿った古畳は、そこに蓄積されていた汗の香りを甦らせ、智子は不意に中学校の柔道部室を思い出した。
そんな不潔な香りにゆっくり顔をあげると、玄関の横にある小さな格子窓から部屋の中をジッと覗いている老婆がいたのだった。

驚いた智子は慌ててパンツを鷲掴みにすると、それを素早く履いた。
「ごめんな……」
老婆はそう言いながらドアの隙間からゆっくりと顔を出した。
「ドタバタと凄い音がしたもんやから……心配になってな……」
真っ白な白髪頭の老婆は、モゾモゾしながらドアを開け、勝手に部屋の中へと入って来た。そんな老婆の手には、なにやら巨大な風鈴のような形をした、昔ながらの金魚鉢が握られていた。
智子は畳の上に投げ捨てられていたジーンズを慌てて引き寄せると、正座する太ももの上にそれを置いてはミジメな下半身を隠した。
そうしながらも、さっき不動産屋の親父が言ってた、(このアパートには、このすぐ真下にボケた婆ぁさんが住んでるだけだから)という言葉を思い出した。
智子は睫毛に滴る涙を手の甲で拭き取りながら、「もしかして、この下の部屋の方ですか?……」と聞いた。
「吉村です。よろしゅうに」
老婆がそう笑うと同時に、裏の墓場から発情した雌猫の不気味な鳴き声が聞こえて来た。
「い、いえ、すみません、こちらから御挨拶に行かなきゃならないのに」
智子はそう言いながら、隙を見て素早くジーンズを履いた。
「今、お茶を入れますから」
そう言って立ち上がると、老婆は「ええよ、気ぃ使わんでも」と柔らかく笑い、その青いグラデーションに彩られた丸い金魚鉢を、まだ引っ越しのガムテープが張られたままの冷蔵庫の上にコトッと置いた。
「この子はな、小菊ちゃん言うんや。可愛いやろ……」
老婆は皺だらけの人差し指で金魚鉢の表面をトントンと突きながらカサカサの唇を大きく歪ませて微笑んだ。異様に尾びれの長い真っ赤な金魚が、そんな老婆の指先に向かってゆらゆらと身を寄せて来た。
「ほらね」と嬉しそうに振り向いた老婆の前歯は一本しか無く、その生々しく剥き出した歯茎には細い糸の唾液が無数に引いていた。
智子はとたんに気味が悪くなった。この白髪で歯の抜けた痴呆症らしき老婆も気味が悪かったが、しかしそれよりも、金魚鉢の中で長い尾びれをゆらゆらさせながら泳ぐ金魚が気持ち悪かったのだ。
智子は子供の頃からハトとニワトリと金魚とウサギが苦手だった。
テラテラと玉虫色に輝くハトの首。ニワトリのいつ襲い掛かって来るかわからぬ凶暴性。ウサギの身動きもせずに葉っぱを齧っている時の丸い赤目と、そして金魚が発する何とも言えない生臭さ……。
幼い頃からそれらの丸い目を見る度に失神しそうになっていた智子は、当然、学校では動物の世話係を一度もやった事が無かった。
「これ、餌やから。一日三回あげたってな。餌が無うなったらいつでも取りに来たらええ……」
老婆はそう言いながら小さなビニール袋に入れられた餌を金魚鉢の横に置くと、そのまま玄関に向かってミシミシと歩き出した。
「あっ、あのぅ……」
智子はそう呼び止めながらも、しかし何と言ってその金魚を断ろうか言葉が浮かんで来なかった。
老婆は「なんや?」と振り向きながら首を傾げ、黒目がやたらと大きな目で智子をジッと見つめた。
そんな老婆の黒目に見つめられた智子は、突然、電池が切れた玩具のように止まってしまった。
不思議な事に、智子の身体は身動きひとつ出来ず、かろうじて唇の隙間から息をするのがやっとだった。
(か、金縛り?……)
そう不思議な感覚に驚いていると、再び、裏の墓地で発情した雌猫の鳴き声が聞こえて来た。そんな狂った鳴き声に混じり、どこからともなく三味線の音も聞こえて来た。
「その子、小菊ちゃんって言うんよ。可愛がってあげてな……」
老婆が先程と同じ言葉を呟いた。老婆のその声は、まるで幻聴のようにエコーが掛かっていた。三味線の音と共に数人の男女が「わっ」と笑う声が聞こえてた。
「あ、ありがとうございます……」
思ってもいない言葉が唇の隙間から溢れた。老婆は生々しい歯茎を剥き出してゆっくり微笑んだ。
その日以来、不動産の親父は姿を見せなくなった。
(つづく)
3話へ続く→
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いつ建てられたのか築不明らしく、不動産屋の親父は、なぜかやたらに「戦前の建物や」と自慢げに笑っていた。
玄関の壁にはタイルが貼られていた。屋根には瓦が敷き詰められ、その瓦屋根にある鬼瓦には、このアパートの屋号である『中村』という文字が堂々と彫り込まれていた。

外観は古い昭和の銭湯を彷彿させる迫力だったが、しかし、中はスキー場によくありがちな古い民宿のように侘しかった。
やたらとだだっ広い玄関。アパート内は土足厳禁で、ボロボロに朽ち果てた下駄箱は、埃だらけの蜘蛛の巣と、そこにぶら下がる乾涸びた蛾の死骸に占領されていた。
細い廊下には何故か赤いカーペットが敷かれていた。歩く度にギシギシと廊下が鳴り、荒れ果てた中庭の薄っぺらい窓ガラスがガタガタと揺れた。
「ここは旅館か何かだったんですか?」
親父の後に続きながら智子が聞いた。親父は人一人がやっとの狭い階段を窮屈そうに上りながら、「みたいやな」と人事のように呟いた。
トイレ共同、風呂は無し。二畳の台所と六畳の一間、そして窓を開けると裏は草木が鬱蒼と茂る墓場だった。
さすがにこれだけの悪条件が揃うと、保証人がいないという自分の立場も忘れて露骨に嫌な顔をしてしまった。
「ボロやけど、なかなかしっかりした建物やで、うん……」
親父は悪びれる事もなく、真っ黒に汚れた柱をポンポンと叩きながら呟いた。そんな親父は、天井の隅の板が破れているのをジッと見つめたままだった。
「まぁ、あれや、他の物件も似たような物件やし、取りあえずって事で、ここに決めたらどうや?」
親父はそう笑いながら、「今時、家賃八千円ってのは奇跡やでぇ」と、またしても破れた天井を見上げていた。
確かに、今の智子には家賃が八千円というのはありがたかった。寮を出る時に意味不明な修理代と清掃費を踏んだくられた智子には、このアパートの礼金敷金を払うだけで精一杯だったのだ。
「それじゃあ、この部屋に決めます。どうか保証人の方は宜しくお願いします……」
そう言って頭を下げると、親父は「うん、それがええ、うん」と何度も頷き、古い畳をミシミシと踏みしめながらそそくさと玄関へ向かった。そしてギィギィとうるさいドアを開けながら、「それと……」と足を止めると、いきなり背広の内ポケットから蛇革の財布を取り出し、中から一万円札を三枚取り出した。
「あんた、引っ越しの金、持ってないんやろ。これで運送屋に頼みぃな」
「で、でも」と智子が焦ると、親父は「ええよ、ええよ」と笑いながら三万円を智子に突き付けて来た。
「ここの礼金敷金の二万円とこの三万円。合わせて五万円、貸しといてやるわ。返済はそのうちちょこちょこと返してってくれればええし。ほれ、遠慮せずに受け取りぃな」
そんな親父の温かい笑顔に、不意に智子の目がジワっと熱くなった。世の中にはこんなに優しい人がいたんだ、と思うと、涙が頬にツルンっと零れ落ち、唇にほのかな塩っぱさが広がったのだった。
しかしその夜、やっぱり世の中には悪い人しかいなかったという現実を思い知らされた。
夜の九時を過ぎた頃、脚立とカナヅチと小さなベニヤ板を手にした親父がいきなり部屋にやって来た。
引っ越し疲れでウトウトとしていた智子に、「天井の穴がどうも気になってな」と言いながら、ズカズカと部屋に上がり込んできたのだ。
天井にベニヤ板を打ち付ける音がゴンゴンゴンっと響いた。こんな時間にカナヅチの音を立ててお隣さんに迷惑が掛からないかとヒヤヒヤしていると、「このアパートには、このすぐ真下にボケた婆ぁさんが住んどるだけやし、心配せんでええよ」と、親父は再びカナヅチの音を激しく響かせた。
真っ黒に汚れた天井の隅に真新しいベニヤ板が打ち付けられた。それはまるで公園の隅に建てられているホームレスの小屋のような侘しい雰囲気を漂わせていた。
「よしゃっ」と言いながら脚立を下りると、「これですきま風も入れへんで」と親父は自慢げに微笑んだ。
そんな親父に「こんな夜分にありがとうございました」と頭を下げた瞬間、いきなり目の前がグラグラッと激しく揺れた。
何が何だかわからず、慌てて「えっ?」と顔をあげると、智子の目の前に親父の脂ぎった顔が迫っていた。
「ワシが面倒見てやるから、な、もう金の事は心配せんでもええから、な、な」
真っ赤な顔をした親父は、豚が餌を漁るような勢いで智子の首筋に顔を埋めた。
「いやです!」と叫んだ瞬間、床に押し倒された。ドン!という激しい音と共に、薄い窓ガラスが一斉にザワザワと揺れた。
もの凄い力で顔を畳に押し付けられた。鼻が押し潰されてしまうのではないかという恐怖が智子を襲った。無我夢中で顔を横に向けると、いつの間にかジーンズが脱がされていた。
「地味なパンツやなぁ」
デブ独特のノロマな声が頭上から聞こえ、同時にハァハァという荒い呼吸と共にパンツをツルンっとズリ下げられた。
親父は智子の身体を畳に押し付けながら、剥き出された智子の尻に顔を埋めた。
「いやぁぁぁ!」と叫びながら両脚をバタバタさせると、突然膣に生温かい感触が広がり、まるで散歩後の大型犬が水を飲んでいるような音が部屋に谺した。
親父は智子の膣を唾液でたっぷりと濡らすと、暴れる智子をそのまま羽交い締めにし、ニヤニヤと笑顔を浮かべながら背後から男根を突き刺して来た。
強烈な痛みが智子の脳を刺激した。それはまるで一枚刃のカミソリを膣に出し入れされているような鋭い痛みだった。
智子は歯を食いしばりながら泣いた。そんな智子を背後から抱きしめながら、親父は智子の耳元に囁いた。
「顔は地味やけど身体はええわ……おっぱいも尻も肉付きがええし、それにこの穴の具合は……最高や……」
タバコ臭い親父の息が、智子のうなじを何度も通り過ぎて行った。
そう屈辱的に囁かれる度に、智子の脳裏にお父さんとお母さんの青い顔が浮かんで来た。
「お母さん……」
古畳に顔を押し付けられながらそう呟いた瞬間、実家のガレージの奥でぶら下がっていたお母さんの目がいきなりパッと開いた。
「智ちゃん……ごめんね……」
青い顔をしたお母さんが口を動かさずしてそう智子に語りかけると、カッと見開いた目からドス黒い涙をドロリと流した。それと同時に、智子の膣の奥にもドロリとした生温かい感触が広がったのだった。
逃げるようにして親父が部屋を出て行くと、畳に踞ったままの智子は精液が垂れる尻を出したまま激しく泣いた。それはレイプされた事に悔しくて泣いたのではなく、お母さんの悲しそうな目が頭から離れなくなってしまったため絶叫していたのだ。
滝のように流れる涙が、頬を伝って畳に染み込んだ。涙で湿った古畳は、そこに蓄積されていた汗の香りを甦らせ、智子は不意に中学校の柔道部室を思い出した。
そんな不潔な香りにゆっくり顔をあげると、玄関の横にある小さな格子窓から部屋の中をジッと覗いている老婆がいたのだった。

驚いた智子は慌ててパンツを鷲掴みにすると、それを素早く履いた。
「ごめんな……」
老婆はそう言いながらドアの隙間からゆっくりと顔を出した。
「ドタバタと凄い音がしたもんやから……心配になってな……」
真っ白な白髪頭の老婆は、モゾモゾしながらドアを開け、勝手に部屋の中へと入って来た。そんな老婆の手には、なにやら巨大な風鈴のような形をした、昔ながらの金魚鉢が握られていた。
智子は畳の上に投げ捨てられていたジーンズを慌てて引き寄せると、正座する太ももの上にそれを置いてはミジメな下半身を隠した。
そうしながらも、さっき不動産屋の親父が言ってた、(このアパートには、このすぐ真下にボケた婆ぁさんが住んでるだけだから)という言葉を思い出した。
智子は睫毛に滴る涙を手の甲で拭き取りながら、「もしかして、この下の部屋の方ですか?……」と聞いた。
「吉村です。よろしゅうに」
老婆がそう笑うと同時に、裏の墓場から発情した雌猫の不気味な鳴き声が聞こえて来た。
「い、いえ、すみません、こちらから御挨拶に行かなきゃならないのに」
智子はそう言いながら、隙を見て素早くジーンズを履いた。
「今、お茶を入れますから」
そう言って立ち上がると、老婆は「ええよ、気ぃ使わんでも」と柔らかく笑い、その青いグラデーションに彩られた丸い金魚鉢を、まだ引っ越しのガムテープが張られたままの冷蔵庫の上にコトッと置いた。
「この子はな、小菊ちゃん言うんや。可愛いやろ……」
老婆は皺だらけの人差し指で金魚鉢の表面をトントンと突きながらカサカサの唇を大きく歪ませて微笑んだ。異様に尾びれの長い真っ赤な金魚が、そんな老婆の指先に向かってゆらゆらと身を寄せて来た。
「ほらね」と嬉しそうに振り向いた老婆の前歯は一本しか無く、その生々しく剥き出した歯茎には細い糸の唾液が無数に引いていた。
智子はとたんに気味が悪くなった。この白髪で歯の抜けた痴呆症らしき老婆も気味が悪かったが、しかしそれよりも、金魚鉢の中で長い尾びれをゆらゆらさせながら泳ぐ金魚が気持ち悪かったのだ。
智子は子供の頃からハトとニワトリと金魚とウサギが苦手だった。
テラテラと玉虫色に輝くハトの首。ニワトリのいつ襲い掛かって来るかわからぬ凶暴性。ウサギの身動きもせずに葉っぱを齧っている時の丸い赤目と、そして金魚が発する何とも言えない生臭さ……。
幼い頃からそれらの丸い目を見る度に失神しそうになっていた智子は、当然、学校では動物の世話係を一度もやった事が無かった。
「これ、餌やから。一日三回あげたってな。餌が無うなったらいつでも取りに来たらええ……」
老婆はそう言いながら小さなビニール袋に入れられた餌を金魚鉢の横に置くと、そのまま玄関に向かってミシミシと歩き出した。
「あっ、あのぅ……」
智子はそう呼び止めながらも、しかし何と言ってその金魚を断ろうか言葉が浮かんで来なかった。
老婆は「なんや?」と振り向きながら首を傾げ、黒目がやたらと大きな目で智子をジッと見つめた。
そんな老婆の黒目に見つめられた智子は、突然、電池が切れた玩具のように止まってしまった。
不思議な事に、智子の身体は身動きひとつ出来ず、かろうじて唇の隙間から息をするのがやっとだった。
(か、金縛り?……)
そう不思議な感覚に驚いていると、再び、裏の墓地で発情した雌猫の鳴き声が聞こえて来た。そんな狂った鳴き声に混じり、どこからともなく三味線の音も聞こえて来た。
「その子、小菊ちゃんって言うんよ。可愛がってあげてな……」
老婆が先程と同じ言葉を呟いた。老婆のその声は、まるで幻聴のようにエコーが掛かっていた。三味線の音と共に数人の男女が「わっ」と笑う声が聞こえてた。
「あ、ありがとうございます……」
思ってもいない言葉が唇の隙間から溢れた。老婆は生々しい歯茎を剥き出してゆっくり微笑んだ。
その日以来、不動産の親父は姿を見せなくなった。
(つづく)
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