金魚1─ 加虐と被虐 ─
2012/02/18 Sat 14:20
「金魚」
作詞・北原白秋 作曲・成田為三
母さん、母さん、どこへ行た
紅い金魚と遊びませう
母さん、帰らぬ、さびしいな
金魚を一匹突き殺す
まだまだ、帰らぬ、くやしいな
金魚をニ匹締め殺す
なぜなぜ、帰らぬ、ひもじいな
金魚を三匹捻ぢ殺す
涙がこぼれる、日は暮れる
紅い金魚も死ぬ死ぬ
母さん怖いよ、眼が光る
ピカピカ、金魚の眼が光る
(大正10年2月18日「赤い鳥」童謡 第四集より)
冷蔵庫の上の金魚鉢が不安定にカタカタと揺れていた。金魚はそんな揺れに動揺する事無く、濁った水の中でジッと智子を見つめていた。
水道の蛇口から水滴が滴り、傷だらけのステンレスに、ボンッ、ボンッ、と鈍い音を立てていた。流し台の横に置いたままの味噌鍋の食べ残しが庶民的な匂いをムンムンと漂わせ、そんなニオイが築年数不明のこの古いアパートの一室を、より惨めに、より悲惨に醸し出していたのだった。

そんな台所を逆さまで見つめる智子は、ささくれだらけの古畳がガシガシと鳴る音が気になって仕方なかった。というのは、今朝もこの部屋の下に住む吉村のお婆さんから、物音がうるさいと注意されたばかりだったからだ。
しかし、かといって部長に『音を立てずに静かにヤって下さい』とは言えなかった。この部屋にいる時の部長は、会社での大人しい態度とは打って変わり、どんな些細な事にもすぐにキレる暴君なのだ。
もし今ここで『静かにヤって下さい』などと注意しようものならたちまち部長はキレて暴れ出し、そうなれば結果的には階下の吉村のお婆さんはもっと困る事になるだろう。
そう思った智子は、古畳と部長の両膝がガシガシと擦れるのを眺めながら、そのまま無視する事にした。
天井にぶら下がる妙に昭和柄な電気傘を見つめていると、不意に部長の頭部から頭皮の油のニオイが漂った。そのニオイは、駅地下で寝ているホームレスの前を通り過ぎた時に漂ってくるソレによく似ており、部長の身体が上下に動く度に鼻孔を襲われる智子は、おもわず顔を背けてしまった。
古畳に押し付けられていた右耳に、階下の吉村さんの部屋から『ミュージックフェア』のオープニング曲が聞こえて来た。
智子はこの曲が好きだった。子供の頃、土曜の夕食時にはいつものこの曲が流れていた。お父さんが新聞を読みながらスーパーのパックに入った白身の刺身を箸でつつき、お母さんが揚げたてのコロッケを食卓に並べ、智子がそのコロッケにソースをダバダバにかけてかじりつく。
この曲を聴くと、そんな土曜の食卓がありありと甦り、不意に智子を幸せな気分にさせてくれるのだった。
「おい」
部長の気怠い声で現実に引き戻された智子はゆっくりと顔を前に向けた。智子の顔の真上に毒素の強い醜い顔が浮かんでいた。
「後ろ向きになって尻を突き出せ……」
擦れた声でそう言いながら、部長はその豚のような醜い体を智子の股からゆっくりと起き上がらせた。
智子は無言のまま身体を反転させ、湿っぽい古畳の上に腹這いになった。そしてそのまま両膝を立てて尻を突き出すと、すぐさま部長の腹に貯蓄されているブヨブヨとした脂肪が智子の尻に押し付けられた。そんな部長の裸体は家畜のようなニオイを放っていた。
畳に立てられた膝が二つ増え、四つになった。互いの膝が古畳にガシガシと擦れ、更にその音は大きく響いたのだった。
部長が帰ると、智子はすぐさま近所の銭湯に走った。
全身にボディーソープを塗りたくり、散々舐められた耳の穴や腋の下、そして残液が付着する膣に泡だらけの指を押し込んでは、そこの粘膜がなくなるくらい洗いまくった。
泣きながら泡だらけの膣を排水口に剥き出して小便を噴き出すと、隣りで孫の身体を洗っていたお婆ぁさんが、恐怖に満ちた目で智子を見つめていた。
銭湯から帰るなり、台所のテーブルの上に置いてあった味噌鍋を流し台にぶちまけた。二畳しかない狭い台所に濃厚なニオイが立ち籠めた。それはまるで駅の公衆便所にぶちまけられているゲロのような酸味のキツいニオイだった。
『ウチの田舎の婆さんが作った特製田舎味噌だ。身体が温まるぞぉ』
そのニオイと同時に、自慢げに語っていた部長の醜い顔が甦って来た。智子は脳裏に浮かぶ部長の顔を必死に払い除けながら、流し台に溜った茶色いスープに何度も何度も唾を吐きかけてやったのだった。
奥の六畳の部屋へ行くと、その部屋まで特製田舎味噌のニオイに汚染されていた。慌てて窓を開け、サビだらけの手摺に凭れながら外の新鮮な空気を吸う。
窓の下には無数の墓が不規則に並んでいた。雨上がりの湿った墓石は貪よりと黒ずみ、そこに茂る草木と湿った土が夜の香りを漂わせていた。
二十六才。あと一週間でいよいよ二十六才……。
雨でまだらに湿った誰なのかもわからない墓を見つめながら、ふと口の中で呟いた。
北陸の片田舎から、この関西の外れ町に出て来て四年。
智子は墓場のどこかに潜んでいる鈴虫の鳴き声を聞きながら、
(私はこの町にいったい何をしにやって来たんだろう……)
と、錆びた手摺を強く握りしめた。
最初はこんなんじゃなかった。ここに来たばかりの頃は貧しくも真面目にひっそりと暮らしていたのだ。
智子が不特定多数の男達と交わるようになったのは、このアパートに越してからだった。
このアパートで一人暮らしをする前の智子は、大学時代に付き合っていた彼氏と、その後、婚約者だった男の、この二人の男しか知らなかった。
智子は根っからの真面目だった。学生時代、合コンや援交や出会い系サイトといったいかがわしいものが流行り、周囲の友達も皆それなりに手を出していたが、しかし智子はそのいずれも経験した事が無かった。
真面目な智子はそれらが不潔に思えてならなかったのだ。
なのに、今の智子といえば、親しくもない男に平気でその身を開いていた。一度も話しをした事もないような男でも、初めて会った男でも、どんな男であっても智子は拒否する事なく迎え入れた。
このアパートに引っ越ししてからだ……
手の中に広がる赤サビのザラザラとした感触が、とたんに嫌悪感を誘発した。
喉が引き裂けるほどの大きな声で、半月の夜空に向かって叫びたい衝動に駆られると、それを抑える感情で涙が溢れ、手摺を握る拳の上に生温かい涙がポタポタと零れ落ちた。
どうして……どうしてなの……
そう嘆く智子の背後では、金魚鉢の金魚がゆっくりと方向転換しながら、まるで振り袖のような長い尾びれを華麗に揺らしていたのだった。

一ヶ月前、智子にこのアパートを紹介したのは、駅裏の不動産屋の親父だった。
当時、社員寮で暮らしていた智子は、先輩のあまりにも陰湿なイジメに耐えきれず寮を出る事に決めたのだ。
しかし、どこの不動産屋も智子を相手にしてくれなかった。それは智子に保証人がいないからだ。
散々町中の不動産屋を当たってみたが、やはりどこもダメだった。
駅裏のバスターミナルで途方に呉ていた時、ふと駅裏の雑居ビルの中にある小さな小さな不動産屋がいきなり目に飛び込んで来たのだった。
工場に近くて家賃三万円程度のワンルームマンション。それが智子が不動産屋に出した条件だった。
フクロウのような顔をした不動産屋の親父は、背後の書類棚から青いファイルを取り出すと、芋虫のような指を舐めながら書類を一枚一枚捲り始めた。
書類を一枚一枚眺めていく動作の鈍さに、智子はイライラを隠せなかった。
そんな智子のイライラに気付いたのか、親父はニヤニヤと笑いながら「ごめんな、ウチにはマイコンとかないからなぁ」と呟いた。
今時パソコンがない不動産屋というのも珍しいが、パソコンの事をマイコンと呼ぶ人も珍しい。そう思っていると、不意に智子はクスッと笑ってしまった。
「なんか可笑しいか?」
親父はニヤニヤしながらファイルと智子を交互に見つめ、口内にティッシュを詰め込んだようなデブ声で嬉しそうにそう聞いた。
「いえ、別に……」
智子が笑いを堪えながら俯くと、親父は急に書類を捲る手を早め、
「この辺で保証人なしで貸してくれる部屋は見当たらんなぁ……なんせこの辺は大阪や京都と違うて田舎やからなぁ……」
と、タプタプの頬を揺らしながら口をペチャペチャさせて言った。
「家族の人は保証人になってくれへんの?」
「はい……」と頷いた瞬間、壁に掛けられた古時計がボーンっと二時半を知らせた。
「親御さんが保証人になれない事情ってのはなんやの……」
親父は好奇心旺盛な目で、いやらしく智子を見つめる。
「はい。実は、両親は四年前に亡くなりまして……」
「……二人同時にか?」
「はい……」
「それは、交通事故かなんかかいな?」
「…………」
智子が俯いていると、親父は何かを察したかのように「まぁ、ええわ」と優しく微笑むと、そそくさと青いファイルを閉じてはその澱んだ空気をさっと切り替えたのだった。
新たに書類棚から違うファイルを取り出すと、「この物件なら保証人はいらんのやけど……」と独り言のように呟きながら書類をぺしゃりぺしゃりと捲り始めた。
智子は、その親父の「やけど……」の次の言葉が知りたくて、黙ったまま親父を見つめた。
「……ごっつ古いアパートなんや……」
親父はそう言いながら書類を智子の前に差し出した。
書類の最初に書かれていた『屋号・中村荘』という字を見た瞬間、なぜか不思議な懐かしさを感じた。
智子はその家賃八千円の『中村荘』に、何かしら運命のようなものを感じ、優しい気持ちに包まれながら、この部屋にしよう、と決めたのだった。
(つづく)
2話へ続く→
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作詞・北原白秋 作曲・成田為三
母さん、母さん、どこへ行た
紅い金魚と遊びませう
母さん、帰らぬ、さびしいな
金魚を一匹突き殺す
まだまだ、帰らぬ、くやしいな
金魚をニ匹締め殺す
なぜなぜ、帰らぬ、ひもじいな
金魚を三匹捻ぢ殺す
涙がこぼれる、日は暮れる
紅い金魚も死ぬ死ぬ
母さん怖いよ、眼が光る
ピカピカ、金魚の眼が光る
(大正10年2月18日「赤い鳥」童謡 第四集より)
冷蔵庫の上の金魚鉢が不安定にカタカタと揺れていた。金魚はそんな揺れに動揺する事無く、濁った水の中でジッと智子を見つめていた。
水道の蛇口から水滴が滴り、傷だらけのステンレスに、ボンッ、ボンッ、と鈍い音を立てていた。流し台の横に置いたままの味噌鍋の食べ残しが庶民的な匂いをムンムンと漂わせ、そんなニオイが築年数不明のこの古いアパートの一室を、より惨めに、より悲惨に醸し出していたのだった。

そんな台所を逆さまで見つめる智子は、ささくれだらけの古畳がガシガシと鳴る音が気になって仕方なかった。というのは、今朝もこの部屋の下に住む吉村のお婆さんから、物音がうるさいと注意されたばかりだったからだ。
しかし、かといって部長に『音を立てずに静かにヤって下さい』とは言えなかった。この部屋にいる時の部長は、会社での大人しい態度とは打って変わり、どんな些細な事にもすぐにキレる暴君なのだ。
もし今ここで『静かにヤって下さい』などと注意しようものならたちまち部長はキレて暴れ出し、そうなれば結果的には階下の吉村のお婆さんはもっと困る事になるだろう。
そう思った智子は、古畳と部長の両膝がガシガシと擦れるのを眺めながら、そのまま無視する事にした。
天井にぶら下がる妙に昭和柄な電気傘を見つめていると、不意に部長の頭部から頭皮の油のニオイが漂った。そのニオイは、駅地下で寝ているホームレスの前を通り過ぎた時に漂ってくるソレによく似ており、部長の身体が上下に動く度に鼻孔を襲われる智子は、おもわず顔を背けてしまった。
古畳に押し付けられていた右耳に、階下の吉村さんの部屋から『ミュージックフェア』のオープニング曲が聞こえて来た。
智子はこの曲が好きだった。子供の頃、土曜の夕食時にはいつものこの曲が流れていた。お父さんが新聞を読みながらスーパーのパックに入った白身の刺身を箸でつつき、お母さんが揚げたてのコロッケを食卓に並べ、智子がそのコロッケにソースをダバダバにかけてかじりつく。
この曲を聴くと、そんな土曜の食卓がありありと甦り、不意に智子を幸せな気分にさせてくれるのだった。
「おい」
部長の気怠い声で現実に引き戻された智子はゆっくりと顔を前に向けた。智子の顔の真上に毒素の強い醜い顔が浮かんでいた。
「後ろ向きになって尻を突き出せ……」
擦れた声でそう言いながら、部長はその豚のような醜い体を智子の股からゆっくりと起き上がらせた。
智子は無言のまま身体を反転させ、湿っぽい古畳の上に腹這いになった。そしてそのまま両膝を立てて尻を突き出すと、すぐさま部長の腹に貯蓄されているブヨブヨとした脂肪が智子の尻に押し付けられた。そんな部長の裸体は家畜のようなニオイを放っていた。
畳に立てられた膝が二つ増え、四つになった。互いの膝が古畳にガシガシと擦れ、更にその音は大きく響いたのだった。
部長が帰ると、智子はすぐさま近所の銭湯に走った。
全身にボディーソープを塗りたくり、散々舐められた耳の穴や腋の下、そして残液が付着する膣に泡だらけの指を押し込んでは、そこの粘膜がなくなるくらい洗いまくった。
泣きながら泡だらけの膣を排水口に剥き出して小便を噴き出すと、隣りで孫の身体を洗っていたお婆ぁさんが、恐怖に満ちた目で智子を見つめていた。
銭湯から帰るなり、台所のテーブルの上に置いてあった味噌鍋を流し台にぶちまけた。二畳しかない狭い台所に濃厚なニオイが立ち籠めた。それはまるで駅の公衆便所にぶちまけられているゲロのような酸味のキツいニオイだった。
『ウチの田舎の婆さんが作った特製田舎味噌だ。身体が温まるぞぉ』
そのニオイと同時に、自慢げに語っていた部長の醜い顔が甦って来た。智子は脳裏に浮かぶ部長の顔を必死に払い除けながら、流し台に溜った茶色いスープに何度も何度も唾を吐きかけてやったのだった。
奥の六畳の部屋へ行くと、その部屋まで特製田舎味噌のニオイに汚染されていた。慌てて窓を開け、サビだらけの手摺に凭れながら外の新鮮な空気を吸う。
窓の下には無数の墓が不規則に並んでいた。雨上がりの湿った墓石は貪よりと黒ずみ、そこに茂る草木と湿った土が夜の香りを漂わせていた。
二十六才。あと一週間でいよいよ二十六才……。
雨でまだらに湿った誰なのかもわからない墓を見つめながら、ふと口の中で呟いた。
北陸の片田舎から、この関西の外れ町に出て来て四年。
智子は墓場のどこかに潜んでいる鈴虫の鳴き声を聞きながら、
(私はこの町にいったい何をしにやって来たんだろう……)
と、錆びた手摺を強く握りしめた。
最初はこんなんじゃなかった。ここに来たばかりの頃は貧しくも真面目にひっそりと暮らしていたのだ。
智子が不特定多数の男達と交わるようになったのは、このアパートに越してからだった。
このアパートで一人暮らしをする前の智子は、大学時代に付き合っていた彼氏と、その後、婚約者だった男の、この二人の男しか知らなかった。
智子は根っからの真面目だった。学生時代、合コンや援交や出会い系サイトといったいかがわしいものが流行り、周囲の友達も皆それなりに手を出していたが、しかし智子はそのいずれも経験した事が無かった。
真面目な智子はそれらが不潔に思えてならなかったのだ。
なのに、今の智子といえば、親しくもない男に平気でその身を開いていた。一度も話しをした事もないような男でも、初めて会った男でも、どんな男であっても智子は拒否する事なく迎え入れた。
このアパートに引っ越ししてからだ……
手の中に広がる赤サビのザラザラとした感触が、とたんに嫌悪感を誘発した。
喉が引き裂けるほどの大きな声で、半月の夜空に向かって叫びたい衝動に駆られると、それを抑える感情で涙が溢れ、手摺を握る拳の上に生温かい涙がポタポタと零れ落ちた。
どうして……どうしてなの……
そう嘆く智子の背後では、金魚鉢の金魚がゆっくりと方向転換しながら、まるで振り袖のような長い尾びれを華麗に揺らしていたのだった。

一ヶ月前、智子にこのアパートを紹介したのは、駅裏の不動産屋の親父だった。
当時、社員寮で暮らしていた智子は、先輩のあまりにも陰湿なイジメに耐えきれず寮を出る事に決めたのだ。
しかし、どこの不動産屋も智子を相手にしてくれなかった。それは智子に保証人がいないからだ。
散々町中の不動産屋を当たってみたが、やはりどこもダメだった。
駅裏のバスターミナルで途方に呉ていた時、ふと駅裏の雑居ビルの中にある小さな小さな不動産屋がいきなり目に飛び込んで来たのだった。
工場に近くて家賃三万円程度のワンルームマンション。それが智子が不動産屋に出した条件だった。
フクロウのような顔をした不動産屋の親父は、背後の書類棚から青いファイルを取り出すと、芋虫のような指を舐めながら書類を一枚一枚捲り始めた。
書類を一枚一枚眺めていく動作の鈍さに、智子はイライラを隠せなかった。
そんな智子のイライラに気付いたのか、親父はニヤニヤと笑いながら「ごめんな、ウチにはマイコンとかないからなぁ」と呟いた。
今時パソコンがない不動産屋というのも珍しいが、パソコンの事をマイコンと呼ぶ人も珍しい。そう思っていると、不意に智子はクスッと笑ってしまった。
「なんか可笑しいか?」
親父はニヤニヤしながらファイルと智子を交互に見つめ、口内にティッシュを詰め込んだようなデブ声で嬉しそうにそう聞いた。
「いえ、別に……」
智子が笑いを堪えながら俯くと、親父は急に書類を捲る手を早め、
「この辺で保証人なしで貸してくれる部屋は見当たらんなぁ……なんせこの辺は大阪や京都と違うて田舎やからなぁ……」
と、タプタプの頬を揺らしながら口をペチャペチャさせて言った。
「家族の人は保証人になってくれへんの?」
「はい……」と頷いた瞬間、壁に掛けられた古時計がボーンっと二時半を知らせた。
「親御さんが保証人になれない事情ってのはなんやの……」
親父は好奇心旺盛な目で、いやらしく智子を見つめる。
「はい。実は、両親は四年前に亡くなりまして……」
「……二人同時にか?」
「はい……」
「それは、交通事故かなんかかいな?」
「…………」
智子が俯いていると、親父は何かを察したかのように「まぁ、ええわ」と優しく微笑むと、そそくさと青いファイルを閉じてはその澱んだ空気をさっと切り替えたのだった。
新たに書類棚から違うファイルを取り出すと、「この物件なら保証人はいらんのやけど……」と独り言のように呟きながら書類をぺしゃりぺしゃりと捲り始めた。
智子は、その親父の「やけど……」の次の言葉が知りたくて、黙ったまま親父を見つめた。
「……ごっつ古いアパートなんや……」
親父はそう言いながら書類を智子の前に差し出した。
書類の最初に書かれていた『屋号・中村荘』という字を見た瞬間、なぜか不思議な懐かしさを感じた。
智子はその家賃八千円の『中村荘』に、何かしら運命のようなものを感じ、優しい気持ちに包まれながら、この部屋にしよう、と決めたのだった。
(つづく)
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